第15話 パンとサーカス

 レオくんはてっきり私を追いかけてくるものだと、そう思っていた。お姉ちゃんと呼ぶ声に、私は心のどこかで優越感を得ていたのだ。この街の中でなぜか私だけを最初に選んだレオくんは、私を特別にしてくれるように思っていた。コンベアーはすぐに私を自宅に漂着させる。レオくんは追いかけて来なかった。彼の足音も、声もない。まるでこの世界から忽然と居なくなってしまったみたいだ。

 ひぐらしの声が響く。


 「当然だよね。逃げたのは私だもの」



 ドアノブを回す。

 室内に入る。

 沈みゆく夕陽に照らされた室内は暗く、赤く染まっている。テーブルも、ベッドも真っ赤だ。

 部屋の照明をつけようとボタンを押す。


 スイッチをオンにしても明かりが点かない。

 一瞬だけ故障かな、と思った。

 でも本当は分かっていた。

 最近は、毎日繰り返されてきたことだから。


 『「バケモノ」出現』

 

 携帯端末から音声が響く。


 「レオくん、仕事に行ったんだ」


 彼が今日も戦うのだ。たった一人だけど「バケモノ」も一体だけなのだし、問題はない。彼の持つ「断罪のツメ」があれば、また一瞬で倒してくれることだろう。私は何もしなくていい。


 『「バケモノ」出現』

 

 情報を反復しているのか、携帯端末からは同様の音声が流れる。私はベッドに座り込む。

 洋服に染み付いた汗は私の体に張り付いて鬱陶しい。私はベッドに倒れ込む。ひぐらしの鳴く声がする。携帯端末からは警報が鳴る。私は白いシャツに、風通しの良い薄く青いロングスカートを着ていた。寝転がってようやく思い出す。ようやく、私を認識する。


 「お姉ちゃん、か」

 

 そんな名称を言われたのは久しぶりだった。私の実家の弟は、私のことを小さい頃はお姉ちゃんと慕っていた。あの頃の彼は可愛かった。何をするにも付いてきて、自分のしたことをいつも誇らしそうに見せてくる。レオくんは弟の幼少期に似ていた。だから、私は彼を何の違和感もなくこの部屋に暮らさせているのだろう。今の弟は私のことをお姉ちゃんなんて呼ばない。呼び捨てにする。カナコ。カナコと呼んでくる。別にそれで彼のことを嫌いになった訳ではない。人間は成長していくのだから、しょうがないのだ。でも、多分私の名前を呼ばれることに動揺してしまうのは、私が南天カナコという名前にどこか薄っぺらいものを感じるからだ。親から与えられた大切な名前だけど、紙に書いて見ていると途端に恥ずかしさを覚える。与えられただけの名前。与えられただけの命。私はこんなものでいいのかと、この街に来る前はいつも自問していた。この街で暮らしていくうちに変わっていけるだろうと、希望を持った一日もあった。でもいつしかそう思うことさえ、忘れてしまっていた。


 太陽が沈む。外は暗黒に包まれる。切ったはずのスイッチが点く。スイッチをオフに動かすことを忘れてそのままにしていたのだ。部屋は電気で明るくなる。


 「レオくん、お仕事終わったのかな」


 レオくんはもうこの街の有名人になっていた。テレビのインタビューを受けることも珍しいことではなくなり、「バケモノ」を退治した暁には、いつもヒーローインタビューが行われている。私はそれを自宅で鑑賞することを、いつもの日課にしていた。病室にいた頃のシリウスさんはその中継をとても嫌がった。見たくないと言って、何故か啜り泣いた。せっかくの彼の勇姿なのに。勿体無い。


 数ヶ月前は側にいたはずなのに、何故か今はとても遠くに、彼を感じる。

 あのライオンの尻尾が、私の腕に不意に当たると、彼はちょっと恥ずかしそうにした。

 画面の中にいつもの笑顔が映るのだろう。

 私は何とも思わないで、テレビの電源をつける。少し前から鳴り始めた携帯端末を取ることは、彼の笑顔を見てからでも遅くないと思った。


 そう、思っていた。


 『「バケモノ」は依然市街地西区を移動しております。家屋を破壊しております。逃げ遅れた住民たちの保護を獣人委員会は行っておりますが、「彼」の到着を待つのみであります』


 夜の街。明かりのない街は黒い碁盤のようだ。巨大な蠍はその中を歩いてゆく。その体躯に浮かぶ白い線は蠍座の模様だ。家屋を踏み潰し、炎や煙をそこかしこに上げながら、街を我が物顔で進んでいる。黒い鱗のような甲殻に覆われた巨大な尻尾。地獄の鬼が持つ棍棒のようだ。


 突如、暗黒の空に小さな流れ星が奔る。オレンジ色の光。ミサイルのように直進し、黒蠍に向かって飛んでゆく。


『来ました!「ライオン紋の王子様」です!』


 キャスターが大声を出す。

 私はこの放送の真意を理解する。

 ショーだ。

 「バケモノ」の存在も、恐怖も、レオくんが全てなくしてしまって、ただ彼の強さを見せつける場となっているのか。

 でも何故夜までレオくんは来なかったのだろう。そんな疑問を抱き、ふと視線を逸らすと携帯端末に着信があることに気がつく。


 「すまない、カナコ。ダメだった」


 電話の送り主はハナエだった。何故か息を切らしている。携帯端末からはノイズのような風の音が聞こえる。


 「どうしたの、急に」

 

ハナエは走っているらしい。図書館からこの夜にどこへ向かおうというのか。黒蠍が街を破壊しているのに、なぜ留まっていないのだろう。


 テレビ画面に目を戻す。

 会敵する蠍と流れ星。

 オレンジの流れ星は蠍の正面に立ち塞がる。黒蠍の赤い目はその光源を眩しそうに見つけると、黒い尾を振り上げる。


 「此れより見せるは威厳ある王、その三振りがひとつ!」

 

 ライオン紋の王子様はその頭上に白い閃光を出現させる。両手を伸ばし、その中にある何物かを掴み取る。「断罪のツメ」と呼ばれる「バケモノ」殺しの槍である。中継しているカメラの位置が遠いために、その形ははっきりとは見えない。彼の体躯よりも一回り大きいその武器の光は、オレンジの光さえ掻き消してしまいそうだ。ライオン紋の王子様は黒蠍に向けてその鋒を差し向けると、その身を委ねるように突進してゆく。初めて会ったあの日と同じ、いつもと変わらない戦いの光景だ。


 「彼を、レオくんを止められなかった。私の責任だ」

 「責任?」

 

 何故止める必要があるのだろう。

 彼はヒーローで世界を救うことが任務なのだ。それを止めてしまうのは、おかしい。


 閃光と共に衝突し、そのまま貫通するかに見えたが、次の瞬間には黒蠍の上方に槍の一撃は逸らされてしまう。必殺の一撃は弾かれたのだ。弾かれた「断罪のツメ」は次第に光を失ってゆく。光を失った槍の姿は、白骨のように白く細長い姿をしており、闇夜に浮かぶその姿は、まるで亡霊のようですらある。白い閃光が消えた後には、オレンジの光が頼りなげに夜空に浮かぶだけだ。


 『弾かれましたね』


 テレビキャスターは事実を淡々と述べる。

 何だか面白くない。いつものように「バケモノ」を撃破して、意気揚々と帰ってくるものだと思っていたのだ。私の予想は外れたのだ。


 オレンジの流れ星は弧を描いて蠍の尻尾の上空に舞い上がる。蠍の尻尾は流れ星を撃ち落とそうと振り下ろされるが、オレンジの光はすんでのところでかわす。


 『躱した!』


 テレビキャスターが当然のことを話す。彼はこの街を背負うヒーローなのだ。これくらいの臨機応変さは持ち合わせているだろう。しかし、私の胸に燻り始めたこの苛立ちは何だろう。今すぐあのオレンジの光の側に駆け寄ってやりたい。この気持ちは、一体どこから湧いてくるのだろう。


 「わからないのか。カナコ。君の後輩だって気づいたんだ。どうして君が気づいてやれない」

 「ユウコが」


 柿原ユウコは私が家に招いたあの日から、だんだんと態度がよそよそしくなっていた。道で会う度に何か言いたげであったが、そのまま口をつぐんでいた。私が隠さないで言ってちょうだいと言っても、伏した目を上げずに答えなかった。


 オレンジの流れ星は二度目の衝突を試みる。しかし蠍の尻尾が鞭のようにしなると流れ星は弾かれてしまう。あのおしゃべりの彼女にしては不自然だった。


 『おっと弾かれた!』


 キャスターは当然のリアクションをする。

 弾かれるはずがない。弾かれていいはずがない。私は理由も見つけないうちに、そう思っていた。私は怒っている。何故か私はこの現状に怒っているのだ。


 「君の家に、そろそろ君の後輩が着くだろう。そうなったら、カナコ。君はちゃんと逃げないで、向き合ってあげなきゃいけない。レオくんと」


 ハナエの声は走り疲れているといるよりは震えていた。寒さに凍えているようなその口調は聞いたことのないものだった。


 「何よ、向き合うって」


 私とレオくんは共同生活をしている。一番近いところにいるし、彼は彼自身の意思でヒーローになっている。戦っている。私がその光景を見ることができる少ない機会なのだ。邪魔しないで欲しい。通話はハナエよりも先に私が切った。


 玄関の戸を叩く音が同時にこの小さい家に響く。


 「先輩!開けてください!」


 柿原ユウコは何故か切羽詰まった声を出して玄関の戸を叩き続ける。何をそんなに急いでいるのだろう。


 「どうしたの、そんなに急いで」

 「先輩は何にも、何にもわかっていないんです!!」


 ドアを開けた私を見るなり、柿原ユウコはそう叫んだ。道中転んでいるのか、制服とスカートに染みが付いている。怪我をしたのだろうか。白い蛍光灯に顔は赤く照らされて、赤縁眼鏡の奥の瞳は潤んでいる。ただごとではない雰囲気を感じる。


 ハナエもユウコも、なんだか異常だ。まるで後ろから誰かに追いかけられてでもいるように感じる。私は彼らをせっつかせているものが何なのかその正体を考えてみたが、心当たりはなかった。ユウコは私をキッと睨むと土足のまま玄関に踏み入り、テレビの前に立つ。黒い蠍とオレンジの小さな流れ星はまだぶつかったり離れたりを繰り返している。


 「ちょっと、私の家に土足で」

 「レオくんは私たちにずっと隠し事をしてきたんです」


 隠し事。その真意を考えるより先に、ユウコは制服のポケットから黒いイヤホンを取り出した。ワイヤレスのタイプで送信元とは無線で繋がっている。ユウコはその片方を私に差し出して、もう片方を自分の耳につけた。


 「今戦っているあの子の服に、このイヤホンのマイクがついてます。先輩がいなくなったあと、ハナエさんが彼にシールだと嘘を伝えて付けたんです。あの子がどうやって戦っているのか。先輩も知るべきです」

「まぁ、それもそうね」

「先輩!」


 私はユウコが叫ぶことも、なにも考えないで、イヤホンを取り、耳に付けた。


 最初に聞こえたのは、心臓の音だった。

 バクバクと早鐘のようになり続ける振動。

 次に聞こえたのは、呼吸の音。

 深く吐いて、息を止めてを繰り返す音。

 三つ目に聞こえるのは、小さな声。

 言葉ではない。息を吐くのに合わせてほんの少し漏れ出る声帯の震え。


 恐れを噛み殺してまで戦おうとする、男の子の息遣いが、私の耳に流れてくる。


 不用意な私の心に、レオくんの呼吸がどんどん流れ込んでくる。

 テレビの映像に映る流れ星は蠍の体躯から離れる。耳から深い息を吐く音が聞こえる。意を決したように息を止めると、流れ星は蠍の体躯へと突進してゆく。衝撃が耳を襲い、私は咄嗟にイヤホンを外そうと手を伸ばす。

 しかし柿原ユウコはその手を掴んだ。


 「何するのよ」


 反射的に声が出る。

 柿原ユウコは、私をじっと見つめて震えそうな声を何とか抑えて言う。

「先輩。先輩だって分かってるでしょう。逃げちゃだめです、レオくんから。あの子は、世界を救うヒーローなんかじゃない。そんなことしていい人なんてこの世のどこにも。どこにも、もういちゃいけないんですよ」


 蠍の大きな尻尾に弾かれる度に、イヤホンの奥からは強い衝撃の音と、押し殺した叫びが伝わってくる。痛いはずなのに。痛いと声にすら出さない。そしてまた、息を整えて突進してゆく。弾かれる。突進する。弾かれる。最初は押し殺していたはずの声もだんだんと堪えきれなくなってゆく。ねえ、レオくん。何故。何故そんなにしてまで戦わなければいけないの。


 『苦戦していますね』


 『痛っだい!』


 冷静なリポーターの声と、耳元でつんざく絶叫のその差異に、私はもう、気が狂いそうになっていた。膝ががくんと落ちて、その場に座り込む。

 忌々しいテレビの画面を消そうとするが、リモコンはあまりに遠い。


 「もう、もうやめて。ユウコちゃん。私もう、もう限界なの」

 「私だって!私だって、何とかできたらって思いましたよ。だから。だから先輩に言おうって、思ってたのに。できなかった。この街は、レオくんが戦わないと滅んでしまう。「バケモノ」を倒さなくちゃ、私たちが死んでしまう。獣人委員会は春にはもう予算を大幅に削減させたそうです。レオくんがいるから十分だろうって。あの子が戦えればそれでいいんだって。あの子自身が自信満々に言っていたことに変わりはない。任せておけばいいんだって。ハナエさんは一人でそれに抵抗していました。住民登録をさせることで、同じ人間なんだって認識をこの街の行政に持たせようとしたんです。私は、レオくんの方に変わってもらおうとしました。でもレオくん、頑固ですね。本当は胸に、いえ、身体中に「バケモノ」との戦いで傷ついた痣があるのに、先輩の前だと痛がる素振りをちっとも見せてくれないんです。先輩に気付かせまいとずっと我慢していたんですよ」

 「どうして止めてくれなかったの」

 「レオくんは今日も「バケモノ」退治をすることはわかっていました。ハナエさんとシリウスさんは、彼を戦わせないように図書館で足止めをしていたんです。彼は星座の本が好きですから、興味を持てばレオくんはそのまま、戦わないまま獣人委員会の到着を待っていられるだろう。そう画策していたそうです。でも。獣人委員会は図書館にやってきてしまいました。レオくんの力が必要だと、彼に要請したそうです。二人はレオくんを説得し、獣人委員会にも彼の体について話しました。しかし、彼らはもうそれを知っていたようです。」

「知っていたなら、どうして止めてくれないの」

「獣人委員会は西区の街に住む人々の、膨大な要請に耐えかねて、図書館にやってきたそうなのです。ライオン紋の王子様に早く『バケモノ』を退治させろ。被害が出てからじゃ遅いんだと。レオくんは行ってしまいました。ヒーローの仕事だからと二人に言い残して」


 ユウコは最初こそ声を張り上げていたが、すぐにその声は弱々しくなる。

 イヤホンから聞こえる啜り泣き、涙を流す男の子の声を、テレビのマイクは拾わない。


 『ライオン紋の王子様、「バケモノ」から撤退してゆきます。


 レオくんの使う『断罪のツメ』でしたか、あれはレオくんにとってもリスキーです。一度使用すると何故か再使用まで幾分かの時間を要するらしいですね。二度目が使えるかどうかも不明です。困りましたね。


 あの硬い鎧をどうしましょう。獣人委員会の答弁はどうですか。


 獣人委員会は戦闘ヘリを飛ばすようです。


 やはり、御伽噺に語られたライオンのヒーローと言っても、子どもの彼には荷が重すぎましたか。獣人委員会の到着を、テレビをご覧の皆さんは、落ち着いて待ちましょう』


 逃げようとする少年の背中に、黒蠍の尾は巨大な鞭のようにしなり、うねり、迫り、打ち据える。その剛力は彼のまだ幼い体躯を西の街の高層ビルまで吹き飛ばし、壁面に叩きつける。

 イヤホンから流れるのは、耳をつんざく破壊の轟音。砕ける瓦礫の音。

 それに紛れて、レオくんの絶叫がイヤホンから聴こえる。


「先輩!ダメです!」


 私は一体何を考えていたのかわからない。ただ悔しかった。レオくんがこんなに苦しんでいることに気づこうともしなかった。でも、気づいてあげても何にもしてあげられない。自分が悔しがっているだけしかできないという事実にさえ私は、やり場のない怒りしか持てなかった。この抱えた怒りさえ、止められない涙さえ、あまりにも傲慢で罪深いのだ。

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