第6話 ライオンと街

 ライオンの尻尾は外出中は隠せる、というのはどうも本当らしい。ライオンの尻尾は外に出た途端なくなってしまい、レオくんはズボンにある臀部のボタンを留める。こうして見ればただの男の子だ。レオくんが道路上のコンベアーに乗るとルートの色が青から赤に変わった。そうだ。この子は「ノケモノ」にされていたのだ。レオくんはこの街のルールを知らない。そのままズンズンとルートの上を動いてゆこうとする。「ノケモノ」がコンベアーの上を歩いてきたら一般人はどう思うのか。昨日の私が証明している。


 「ちょっと待った」


 私は咄嗟に彼の両脇を掴んで持ち上げようとする。とんでもなく重い。齢十八の女が易々と拾い上げられる重量ではない。しかし、私は彼に命を救ってもらった恩がある。彼がトラブルに巻き込まれないように、そして彼の希望を叶えてやりたいと思った。


 「重いよ、レオくん!」


 「一体何をやっているんですか」


 レオくんの体がコンベアーから離れるとルートの色は赤から私のルートの色、青に戻る。

 これはまだ住民登録ができない乳幼児が親御さんに抱えられていても「ノケモノ」認定されないように開発されたシステムで、地に足をつけている人にしかルートは反応しないのである。肘にぶら下げた鞄の取手が食い込んで痛い。


 「離してください!子どもじゃあるまいし!」


 「アンタは十分子どもでしょ!」


 レオくんは道中で抱き上げられたことが大層不満らしい。足をバタバタさせて抵抗する。コンベアーはもう動き出している。

 図書館までは距離にして五百メートルもない。しかし私が彼を抱えたままその距離を移動することはコンベアーが動く以上不可能ではないがとても疲れる。私はこういう時のために助っ人を呼んでいた。


 『ルート合流地点です。速度調整はありません』


 「よお、お困りと聞いた」

 「ハナエ、ちょっと遅刻だよ」

 「悪い。準備が必要だった」


 泡草ハナエ。

 この街で私が最も頼れるスーパーウーマン。

 彼女は何やらリュックサックを背負っている。中身は秘密だと言う。


 「きっと役立つものだよ」


 そう言って切れ長の目を私の顔から私が抱えている子どもに向ける。


 「柊レオくんだね」


 レオくんは今までと別人のように黙って、ハナエの視線から顔を背けている。それもそうだ。彼を「ノケモノ」にした張本人が彼女なのだ。この街に二度も部外者が現れれば、温厚な彼女も、疑問に思うだろう。なぜ彼が「ノケモノ」にされたのにも関わらずこの街に残っていられるのか。ハナエはそれを知っているのだろうか。

 もしかしたらまたノケモノ会議をここで発動する可能性さえあった。そうなれば私はまた目の前でレオくんを会議にかけ、「ノケモノ」にせざるを得なくなる。そんな事は御免だった。


「南天さん」


『ジャッジ』と言う言葉が一つの符号。

『ノケモノ会議を執り行います』という言葉はもう一つの符号だ。

 符号は合わさるためにあり、『ジャッジ』と言われたら私に抵抗権はない。

 

 「ハナエさん、あのね。レオくんは」


 弁明をしようと声を出す。私はこの子に命を救われた。確かにあの夜この街で「バケモノ」から私を救ったのは柊レオくんただ一人なのだ。あの日、結局獣人委員会は戦闘用ヘリ一つ飛ばさなかった。最近は「バケモノ」の発生もまちまちで、「獣人委員会」でも経費の削減が行われている。だからまず先に住人の避難が要請されたのだ。私たちの街の正義の味方は予算で動く。モンスターを倒すビーム光線一つにも莫大なお金が掛かる。金より人命がまず優先だろうに。


「獅子」


 身構えていた私に、ハナエはそんなことを口にする。


「獣、獅子、ライオン。最初の『しし』は『獣肉』の『しし』だ。『ししにく』、獣もライオンもおんなじ読みなんだ。ねえ。君、不思議だろう」


 その視線は私を見ていない。

 俯いたままのレオくんに注がれている。


「ライオンは、獣じゃないです。もっと気高い。雄々しい。ライオンは、ライオンです」


 二人の中で何かが通じ合っている。噛み合っていないようだけど、私の中ではわからない秘密の暗号が、彼らの中で共有されている。何だかそんな直感があった。ハナエは無駄な言葉を使わない。私に勉強を教えるときも最小限の言葉で、重要な要素だけを伝える。私はいつもその要素を繋ぐ役割を負わされるのだ。

 ハナエはレオくんの返答にうんうんとうなづくと私の方を向いて言った。


「カナコ。私は確信した。この子は『ノケモノ』にしちゃいけない子だった。この街に必要だ」


 力が抜ける。

 レオくんの足がコンベアーに着く。青から赤に変わる。赤。ノケモノの色、バケモノの色、ヒーローの色。あの夜の、星のように輝いていた赤い外套。


「よっと」

「どっこい」

「ぼくはこれから連行されるんですか」


 一人でできなくとも二人ならばレオくんを浮かせたまま運べる。映画で正体不明の黒服が宇宙人を連行するように、レオくんの左脇を私が、右脇をハナエが腕を通して動かないようにする。そして立ち上がると赤いルートは青に戻った。


 赤と青と黄色。

 色の三原色。

 混ざれば真っ黒。


 映画の黒服の男たちみたいな黒色になる。現実にやってみるのは初めてだったが、案外快適なものだ。

 重さの負担も随分軽くなった。


 「あの、もうちょっと距離を詰めてください。体勢がつらいです」


 しかしそれはレオくんにとってはそうではないらしい。間隔が空いていることで分散された重みは彼自身にのしかかっているようなのだ。今にもライオンの尻尾を出してしまいそうなのか、ズボンのボタンの栓が今にも取れそうだ。


 「ああすまない」

 「ごめんね」


 そうして私とハナエは距離を詰める。

 私の肩とハナエの肩でレオくんの背中を支える。肩に掛かる重圧は増える。だがしかし、ハナエやレオくんとも同じだけ重さを共有しているのだという実感があった。


「どこまで行くんだ」

「電話したでしょう。図書館までよ」

「そうか、それはちょうどいい」


 コンベアーはそんな顛末の中でも滞りなく流れてゆく。

 図書館のすぐ隣、この街の役所のところまでやってきた。ハナエはそこでコンベアーから不意に降りて役所の敷地の上に、コンベアーのない硬い地面に立つ。

 私は動くコンベアーの上でよろけそうになり、レオくんも維持していたバランスを崩しかける。慌てながら、役所の敷地についた私たちを、ハナエは笑った。


「道中で悪いが、こっちの用事に付き合ってくれ。何、君たちにも重要なことだ」


 ハナエがリュックサックの中に隠していた秘密。

 それは書類と印鑑だった。

 この街の住民登録を行うための極秘書類。


「このことはくれぐれも他言無用で、よろしく」


 ハナエの父親はこの街の高官である。いつもは別居しておりオフィス街のワークスペースを活用しているらしいが、昨日はなぜか自宅にいたのだという。


「『バケモノ』が襲来したところが丁度ワークスペースの近辺だった。だから私の家に避難してきたらしい」


 この街は狭い。私の家のすぐ近くにそんな場所があり、この街の高官はそこでこの街を動かしているのか。役所の最上階で高級な椅子に座っているものだと思っていた。ハナエは話したくて仕方がないような様子だったが、声は極力小さく調節していた。


「昨日のあの閃光。私も見たんだよ。いや、私だけじゃない、この小さな街であのとき起きていた全ての住人があの光を目にした。『バケモノ』を討伐して除染作業もいらないくらいに毒素を分解してくれるなんて。きみはすごいね。まさにヒーローだ。」


 ハナエはその閃光を見た時、私と同じようにあの童話を思い出していた。ライオン紋の王子様。地面に立ったレオくんは俯いている。ハナエのキラキラした目を見ようともしない。まだ恐ろしいのだ。


 「ぼくは、人に褒められたくてやってるんじゃないんですよ」

 「でも求められたら応えるんだろう?」

 「仕事だからです」

 「仕事には、見合った報酬がなくちゃいけない」


 ハナエは父親にその御伽噺を話したのだという。そしてかつてこの街に実際にいたヒーローのことも。あの絵本は現実を題材にしていた。夢見るためではなく、今を生きるものが忘れぬよう戒めるために。


 「彼が帰ってきた。ヒーローは子どもの姿になって帰ってきたんだよ」


 ハナエはレオくんが応答しないのが少し不満そうだ。しかし私の方を見るときには、もう晴れ晴れとした顔をしている。百面相みたいだ。


 「実印、持ってきてるよね。シャチハタは使わない主義だろう?」


 私は頷く。

 シャチハタは使わない。私の名前を保証するものはたった一つでいい。誰かと取り替えのきく「南天」の二文字は、名付けられた時点で私だけのものだ。

 役所には独特の雰囲気が漂っている。

 機械的で冷たくて、少しのミスも許されないような、厳粛な雰囲気。休日なのに人の数は多い。老人から、子ども連れの主婦、サラリーマンまで多様だ。昨日の「バケモノ」が襲来した影響だろう。

 役所のテーブルで、ハナエが持ってきた書類に記入する。レオくんがもうノケモノにならないように、私がこの子をノケモノにしなくていいように。この子をちゃんと社会の一員にするのだ。

 ハナエはレオくんの柊という名前を隠そうと提案した。


 「レオなんて名前。今時じゃありふれてるだろう。柊という名前を隠せば、好きに漢字だって当てはめられる。礼を尽くす王と書いて『礼王』。これもレオだ」


 レオくんは椅子の上に立ち上がって、その名前の欄をまじまじと見つめている。


 「ライオンって漢字にできますか」


 ハナエはまた笑って、彼女の携帯端末にその結果を表示させる。


 獅子。


 「しし。ライオンの別名だ」


 レオくんの瞳はこの時初めてハナエの瞳を直視する。

 レオくんは瞳を輝かせてハナエの持ってきた書類の名前欄に『獅子』と見様見真似で書きつける。そしてカタカナのルビ欄に『レオ』とルビを振った。

 獅子と書いてレオと読む。

 なかなか奇抜な発想だった。


 「キラキラネームだ」


 私は目の前の光景に呆然と呟く。

 そんな私にレオくんは笑う。お日様のような温かい笑顔。


 「だってぼく、ライオン紋の王子様だもん!」


 ぽふんとゆるい爆発の音がする。

 まさかと思ってレオくんの臀部を見ると、案の定ズボンのボタンは外れて、隠していたライオンの尻尾が露わになる。


 「ああ、もう!」

 「へえ。すごい」


 私は慌ててレオくんを後ろから尻尾を巻き込んで抱きしめ隠そうとするが、ハナエはその変身を目の前で見たのだ。隠し通せるはずがなかった。どう言い訳したら良いものか。


 「これは流石に、他言無用だね」


 ハナエはうろたえる私を尻目にレオくんを見ながら、口元に人差し指を添えてそう言った。口元はにししと笑っている。いろいろ言いたげだがそれを何とか抑えているのだ。


 「変に思わないの?」

 「昨日の今日だ。何を驚く必要がある」


 レオくんは何故か耳を赤くしている。

 ピンと伸びたライオン尻尾の先のふわふわが私の顎の制約を掻い潜り、肩口から出ようとする。役所には人が少なくない。今ここでライオンの尻尾を持つ不思議生命体を白日の元に晒すのは危険だ。私はその尻尾の先端を口に含んだ。こうすることで隠すことができる、


 「ひううっ」


 レオくんは変な声を上げる。男の子なんだから少しは我慢して欲しい。ライオンの尻尾は普通にただの毛束だ。歯ブラシを噛んだ時みたいなあんな感触。今朝シャワーで洗っていたせいか匂いも味もしない。石鹸で洗っていなくてよかった。あの味は嫌いだ。事故で口の中に入ったときにあの味がするから印象も最悪なのだ。


 「いろいろ言いたいけど後にしよう。さぁ、南天。ここにきみの苗字を書いてくれ」


 ハナエに唆されて、私はレオくんの頭越しにその書類を見る。

 髪の毛が鼻の穴に入りそうだ。昨日会った時よりちょっと伸びた茶色の髪。子どもの成長はこんなに早いのだろうか。鞄から筆記用具と印鑑を取り出す。

 片方の名字欄しか見えないのに、私は何となく書類に「南天」と漢字を書き入れて、カタカナで「ナンテン」とルビを振る。そして言われるがまま実印ハンコを押した。


 「あはははは。こりゃすごい。傑作だ」


 ハナエは私が書き終えるや否や書類を取り上げて、大声で笑いながら見せつけてきた。


 その氏名の欄を。

 左には私の書いた南天。

 右にはレオくんの書いた獅子の文字。

 合わせれば「南天獅子」と読める。

 ナンテンレオ。

 地球の反対側の南天に、獅子座なんてあっただろうか。

 私は呆然と天球儀を思い浮かべる。


 「養子じゃあ無理がある。親戚の弟ということにしておくよ」


 ハナエが笑いながら立ち去って、役所の窓口へ行き、そうしてしばらくしてまだ笑いながら帰ってきた。


 「さて手続きは済んだよ。おめでとう。南天。きみにへんちくりんな弟ができた」


 ハナエは書類のコピーを差し出してくる。

 弟なら私は知っている。

 実家暮らしの弟がいる。

 でも親戚の、弟?

 そんな奴いただろうか。

 しかし、氏名の欄には確かに南天。

 南天獅子の四文字がある。


 南天。

 それは私の名字だ。

 私の名字を、レオくんが持っている。


 「ぼくが、弟で。

 えっと、南天さん」


 ハナエはニコニコしている。

 私は嫌な現実を今まさに突きつけられようとしている。

 口の中に含んだライオンの尻尾はもう無抵抗に萎れている。


「あなたが、ぼくの」


 そうしてレオくんは私を見る。

 茶色い瞳には何故か涙が浮かび、顔は耳の端まで真っ赤だ。


「その」


 その言葉はだんだんとか細くなっていき、最後は蚊の鳴くようなか細い声になっていた。


 「お姉ちゃん、ということですか」


 ハナエは堪えかねたようにまた笑い出す。

 私は悪夢のような現実を知っても、まだ呆然としていた。


 私とレオくんは市役所からふらふら出ると、コンベアーに乗った。レオくんがコンベアーに乗ってもレーンの色は青いままだった。住民登録のお陰だろう。


 「茹で蛸みたいになってる君たち。図書館には行かないのかい」


 ハナエの言葉は頭の中をぐるぐると回るばかりでその真意を理解できない。ただ家に帰れば事態の整理が着くだろうと何となく思えた。茹で蛸。茹で蛸は熱い。熱いのならば冷ませばいい。脳内で勝手に組み上がるロジック。


 「冷ましてくるのよ」


 自分でも何を言っているのかよく分からない。ハナエはその言葉の内にも何かを感じ取ったのか。


 「ああ、どうぞ。ごゆっくり」


 そう言って、動き出したコンベアーに流される私とレオくんを眺めていた。


 家路に向かいつつあることは、風景を見て分かっていた。私はレーンを乗り換える。

 1人になったレオくんのレーンはオレンジ色に変わった。


 「帰らないんですか」


 レオくんは慌てて私の青いレーンに移る。

 そのまま家に帰るのは何となく嫌だった。だからどこかで気晴らしでもしようと考えた。例えば、買い物とか。


「その、君はさ」


 今になって、私はことの事実に気づき始める。私に義理の弟ができてしまった。弟は既に実家に居るから彼自身の扱い方は知らないわけではない。しかし弟になるということは、私の扶養に入るということだ。他人の親族関係に素性も知らない闖入者を加え入れたのか。咄嗟に、君、だなんて呼んでしまうのは、すんなりと受け入れることができないからだ。コンベアーの後ろを振り返ることができない。


 「家族は居ないの」

 「居ません」

 「雇用主は?先生はあなたが私の弟になっても何とも思わないの。これから世話をしてもらえないのに」

 「思いません。僕の代わりは探せば幾らでも居ますから」


 レオくんは即答する。彼は雇用主の家に住んでいるのだからそこに帰れば良いのに、どうして私の弟なんかになってしまったのか。


 「親が居ないなんて嘘じゃないの。あなたがどんなにへんちくりんでも、この世で生きている以上は親がいるはずなのよ」


 私はへんてこなこの子をこれから扶養して生活しなければならないのか。ハナエに今すぐ電話して問い詰めようか。そうして手提げ鞄に伸ばした右手首は強い力で掴まれる。レオくんの両手が必死に掴んでいるのだ。振り払おうとしても強く引っ張って抵抗してくる。


 「居ないんです。もう二人とも居なくなっちゃいました。僕は、先生が言うには捨てられたらしいのです」


 捨てられたからなんだと言うのか。この街には探せば孤児たちの養育施設だってあるだろう。私はこの街で立派な大人になるために、たった一人でやってきた。見知らぬ子どものお守りをするためではない。


 「うるさい!しつこい!」


 腕を力の限り振り回しても、私の手首からレオくんの掴んだ手は解けない。ぽふんという空気が破裂する音を聞いて、私ははっと後ろを振り返った。


 案の定、レオくんのライオンの尻尾が彼の背中越しにチラチラと、春の陽光に照らされている。掴んでいる最中に意識が向かなくなったのか、それとも尻尾を出している方が力が入るのか。私には分からないが、さっきよりも手首を掴む力は強くなっている。痛いくらいだ。私は彼の顔を見ないことにした。その哀願するような目つきも、頬から流れる涙さえ何だか作り物のように思えてしまう。人間は演技をしたり嘘をつくのが上手い生き物だ。正直であろうと振る舞うことは時にその詐術の餌食になる。


 ライオンの尻尾が生えていたって、人並みの知性は持っているのだ。私をいいように使って、しまいには捨ててしまうのか。そう思えばあの変身だって、あの夜の戦いだってよく出来た作り物かもしれない。私はまやかしを見せられて騙されていたのかもしれない。結局全てが終わったら私の目の前に残るのは、代わり映えもなく、必死にもがいて勝ち取るしかない、そんな残酷な日常だけかもしれない。


 見ず知らずの他人を、子どもだからこそ信じることができない。子どもが純粋無垢だなんて嘘っぱちだ。後にものを学んで、絶望しきっていないだけの無知を抱えているだけなのだ。私の世界は私にさえ変えられない。世界はもっと頭の良く富豪で恵まれた人々が頭を巡らせて試行錯誤するような過程を経て、私にもたらされるのだ。


 私という人間だって私が両親が産んでいなければ存在さえしない。過去からの無数の要素で私はがんじがらめになって、初めて「私」という存在が出来上がっている。私が出来ることは、この世界の一部としてちっぽけな自由を謳歌するくらいで、後は社会の一員として死なない程度に体と精神をすり減らして生きるしかない。


 腕をいくら振っても、どんなに言葉を投げかけても、レオくんはその手を離そうとはしない。


 これは世界が変わるチャンスなどではなく、ただのでたらめなのだ。私はハナエから訳の分からない契約をさせられて、騙されて、このよく分からない子どもを引き取るように仕向けられている。返して欲しい。私のあの平穏だった世界を。あの順調にこの社会に溶け込み始めていた世界を返してほしい。


 人混みが私とレオくんの周囲にでき始める。

 流れるレーンの上でも、その光景は行く街の人々の目にくっきりと写っているのだ。


 『あの子ども、昨日の「ノケモノ」になった子だ』


 誰かがそう言葉を発した。それを待っていたかのようにそれまでざわついてばかりだった人々は、ある一つの指向性を持つようになる。群れに紛れた邪魔者を排除しようとする生物の本能が起動する。


 『「ノケモノ」がどうしてこの街に居るんだ。異常だ。異常はこの街にはいらない。排除すべきだ』


 そうして流れていくコンベアーの上を見ながら、人々は相談を始める。誰があの子どもを「ノケモノ」にするのか。誰が「ノケモノ会議」を発令するのか。


 『俺は嫌だ』

 『私はダメね』

 『世間体がある』

 『子どもが可哀想じゃない』

 『でも問題になったら困る』

 『迷惑そうにしているあの人がやれば良いのに』


 誰ががそう呟いた。その言葉に賛同するように同じような言葉が続く。


 『誰かが。誰かが私の、俺の、代わりにやってくれないだろうか。恐ろしくて、とてもできないことだから。あの子をこの街から追い出してくれないだろうか』


 赤い夕日が人々の顔を照らし出す。私はいつしか腕を振ることを忘れていた。私も彼らと同じように、レオくんを排斥することが出来る。そうすれば私は彼らの一員になって、この異常事態から抜け出すことが出来る。ハナエにも何とか言えば、分かってもらえるだろう。私は逃げることができる。知ってしまったことから、逃げることが出来る。この運命から逃れられる。いつか忘れて、いつものように暮らすことができる。就職したり家庭を持ったりして、普通に生きていくことができる。目の前で、通り過ぎていく人々のように。


 レオくんは私の腕から手を離し、そうして周囲の人々を見回している。人々が彼を見る視線は冷淡で、興味本位で、遠巻きなものばかり。手を伸ばしても誰も取ろうとしないばかりか、汚らしいと払われそうになる。レオくんは青いレーンに座り込んで、そうしてシクシク泣き始めた。それを見る人々は少しどよめいたが、すぐにまた遠巻きな視線を向けて、彼を邪険にする。


 特別になりたい訳じゃない。正義を振りかざしてみたいわけでもない。大人になりたくないわけでもない。騙されているかもしれない。それでも、私はこの可能性に賭けてみたい。人々は変わらない。社会も変わらない。世界だって変わらない。それでも、私だけは変わることができる。その可能性に賭けてみたい。


 だって、今泣いている彼を、たった一人のヒーローを救えるのは、同じレーンに乗り合わせた私、たった一人なのだ。


 レオくんは流れる涙を止めようと、目蓋を擦ってばかりだ。その片方の手がいきなり使えなくなったら、驚いてその手の方を向くだろう。それは当然だ。私が左手で勝手に掴んでいるのだから。


 「南天さん」

 「お姉ちゃんと呼びなさい。弟でしょ。アンタは南天獅子。ナンテンレオよ」

 

 二回繰り返しても、しっくりこない名前。

 本当に、不思議な名前だ。


 『速度調整、加速』


 時速何キロかなんて関係ない。

 夕飯を買いに行こうと、私は誘った。

 今日という日にいきなりできた弟は、泣き腫らした目を擦って、行儀良く、はいと答える。


 人々の声は無遠慮に変わる。逃げ去る私たちを、虐待じゃないか、とか、虐めじゃないかと好き勝手に言う。私は更に速度を上げる。あの人々の声は、もう数キロメートル先にある街外れのスーパーには決して届かない。


 「掴まっていてよね。鬱陶しい奴らが見えなくなるまで」

 「はい!」


 弟がへんちくりんならば、私だってへんちくりんにならざるを得ない。ハナエには後でこの顛末を恨みたっぷりに話してやろう。彼女のことだから、悩みを共有するよりも、笑い飛ばして、それでおしまいかもしれない。でも相談くらい乗ってくれるはずだ。私は今から泣きべそかいたライオンのお姉ちゃんになる。へんてこな奴になる。高速レーンを流れていく。頬を打つ風は、やけに気持ちがいい。もっと吹け。もっと打て。私はその程度じゃへこたれないぞ。


 夕飯はカレーにしよう。

 沈む夕陽を追いかけながら、私は今晩の予定を立てた。カレールーだけじゃなく、玉ねぎも、じゃがいもも、豚バラ肉も足りない。足りないから買わなくちゃ。レオくんは両手でしがみつきながら、ライオンの尻尾をなびかせて、近所迷惑なくらいの笑い声を上げる。私も負けじと笑う。この高速度の中では、側から見ればライオンの尻尾も太い縄と見間違うだろう。


 この世界に私たちは、私たちのままで生きてやるんだ。その決意を込めてライオンたちは咆哮した。



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