第46話 孤独(4)

エレベーターから降りて、白い蛍光灯の点いた長い廊下を二人は歩いていた。

「___ここです」

短く榊は告げるとバッグから鍵を取りだして、ドアを開けた。

「あとは大丈夫です」

「ん、ほなら」

臣人は立ち去ろうとしたそのとき、思いっきり榊は何もない平坦な玄関先でつまずいていた。

「あ、」

そのまま倒れ込もうかという瞬間。

臣人が後ろから榊を抱き上げた。

榊の声に閉めようとしていたドアを開け放って、中に入ってきたのだ。

「!」

「まぁったく、見てられへん。1日のうちにこう何回もじゃなぁ」

呆れたのが半分、心配が半分で臣人はつぶやいた。

「葛巻先生…」

抱きかかえられたまま、榊はバツが悪そうに身を固くした。

「ちーとすんまへんが、失礼して入らせてもらいまっせ」

靴を無造作に脱ぎ、ひょいひょいと中に上がり込んだ。

ただ、いつもと違うのはナンパしている時のあの軽い雰囲気がないことだった。

榊は頬を赤くした。

「重いでしょうから降ろしてください」

「当然!ベッドの上にでっしゃろ?」

にへらっと笑っていたが、サングラスの奥の目はそうではなかった。

軽口をたたいていないと自分の気持ちがもちそうになかった。

「ん、もう!」

「冗談でっせ。いくらわいが節操ない言うたって、今日の今日、そこまでは…」

「恥ずかしいわ。あまり人様を家に上げたことなんてないから」

「電気も点けへんし、運んだらすぐ失礼しますさかい。気にせんでぇ」

臣人は思いのほかしおらしい彼女に違和感を覚えた。

今日のことを思えば仕方がないことであろうが__。

学校にいる時に見せる顔を全く違う。

榊は指である方向を指し示した。

その方向に臣人は進んでいった。

右手のドアを開けるとベッドがあり、寝室になっていた。

ゆっくりと彼女のベッドの上に下ろし、毛布を掛けた。

榊は臣人に聞こえないようにため息をついた。

それに気づきながらも、臣人は何事のなかったように二、三歩遠のきながら声を掛けた。

「なあ、榊先生?」

「?」

呼びかけられると思っていなかったのかびっくりして臣人の方を見た。

「こんなこと頼める筋じゃないこともようわかってるんやけど___」

ここでちょっと言葉を切った。

これから言うことを伝えていいものかどうかまだ迷っていた。

今日彼女もその場にいたことが大きかった。

彼らに関わってしまった。

その事実が臣人に重くのしかかっていた。

「はい?」

「今日聞いたこと、見たこと、知ったこと___みんな忘れてもらえんやろか?」

「?」

「『混沌の杖』という名もイェツラーという名もバーンがそれに関わっていたつぅことも」

「葛巻先生…」

「もちろん誰にも言わんでほしい」

いつになく真剣にものを言う彼に気づいて、不思議な気持ちになった。

こんな事は初めてだった。

榊と臣人とはピッタリと視線を合わせたまま、暗闇で見つめ合っていた。

「理由くらい聞かせてほしいですわ」

「それも聞かんで」

間髪置かずに答え、臣人はすべてのことに制限を付けた。

そうしなければ、いやそうしても榊が狙われる可能性が高いからだ。

『銀の舟』の流れを組む『混沌の杖』ならばやりそうなことだ。

いつぞや8年前のように人の弱みに付け込みながら、事を運ぼうとする。

臣人は決心したように、はっきりとした口調で話し始めた。

「バーンやわいのことであんたを巻き込みたくない。下手したら命まで危なくなるようなことや」

あの場にいて、イェツラーの視界に入っていた彼女

甦る8年前の悪夢。

あの場所で自分は彼女ラシスをとめることはできなかった。

なんとしてもラシスの二の舞は避けたかった。

もう自分の非力さを後悔するのは嫌だった。

もう二度とバーンに涙を流させたくはなかった。

あんな悲しい涙は見たくなかった。

「バーンのことを思うのなら、忘れてくれ」

「…………」

「ホンマに___」

臣人は自分自身の言葉で榊に精一杯懇願し、頭を下げた。

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