第34話 傷痕(7)

「1年半、つらいリハビリにも耐えたわ。せめてもう一度、鍵盤を叩いてステージに立って演奏したかった…」

ここで彼女は言葉を切った。

この先の言葉を言うことは、とても勇気がいることなのだ。

認めたくなくても、認めざるを得ない事実がそこにあるからだ。

それはバーンも同じだった。

二人のあいだに沈黙が流れた。

彼もそれをわかっていて、あえて『それで?』と聞くことはしなかった。

朋子のうなだれた頭が微かに動いた。

泣きながら声を上げずにしゃくり上げていた。

その動きに呼応するようにやわらかい髪が揺れた。

「でも、無理だってわかったの」

髪の毛に沿って珠になった涙が落ちていった。

「もう…前のように弾くことはできないって…」

バーンはただ黙って彼女の言うことを聞いていた。

自分もかつてそうであった。

本当にやりたかったことを途中であきらめざるをえないつらさを知っていたからこそ黙って聞いていた。

不思議な親近感を榊に感じていた。

今まで心のどこかで自分が経験した想いは他の人にはないと思っていた。

それが違っていた。

彼女もまたあきらめて生きてきたのだ。

「だから、声楽に転向したわ。音楽から離れて生きていくことはできなかった。…そのあとはオッド先生の知っての通りよ…」

(そうか、だから彼女は…あんなに厳しい指導をするんだな。

今しかできないことをさせるために。

今の自分にできることを精一杯…あるいはそれ以上で。

自分に対する後悔をそういう形で昇華…させてきたんだ…)

榊の顔が上がった。

「笑ってもいいわよ…」

目を真っ赤にしながら彼の顔を見た。

涙で瞳が潤んでいた。

「…………」

「バカな女でしょう?」

「…………」

「そんなことない……さ」

短い言葉でしか答えを返せなかった。

「俺だって……同じさ…」

「オッド先生」

「…お互い…つらいな…」

バーンは眼を伏せた。

そんな彼の横顔を榊は見つめていた。

(オッド先生も?何かあったの?

あったの?)

バーンはラシスと過ごした時間を想い返していた。

彼女の笑った顔を思い出していた。

いつもいつも自分に安らぎと勇気を与えてくれた彼女の存在を思い出していた。

彼女が微笑んでいてくれるだけで幸せになった。

あの時間があったからこそ、今、自分は自分でいられる気がした。

あれほど憎んでいた自分の右眼も。

あれほど嫌っていた自分の魅了眼も。

彼女は受けとめてくれた。

自分という人間を認めてくれた。

化け物としてではなく、人として受け入れてくれた。

あの当時はそんなふうに思えることはほとんどなかった。

しかし、ここにきて今までとは違ったふうに思えるようになっていた。

伝えてもいいと思える自分がいた。

その想いを素直に榊に伝えた。

「過去は取り戻せない。けど…過去があるからこそ、…ここで生きている。そんな気持ちに…なったよ……」

バーンが言葉を発しなくなった。

榊も口を結んでしまった。

沈黙だけがその場にあった。

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