第33話 傷痕(6)
バーンは彼女に静かに語り続けた。
「無理じゃない。方法は…ある」
「…………」
「君の決心と俺の『力』を使えば…な」
1度、彼女の前で術を使ったことはあったが、信じてもらえなかった。
そういう世界があることも。
そういう世界に生きている自分たちがいることも。
疑心暗鬼に陥ってしまい、ひどいことを言われたことがあった。
そんなことを思い出していた。
「
「受け…入れる?」
「ああ」
バーンはため息をついた。
霊感を持たない人間にはあたりまえの反応だ。
普通は見えている世界が世界のすべてなのだから。
高次の世界の存在など理解しろという方が無理なのかもしれない。
「前も言ったけど、信じろって言う方が難しいこのことを・・・
「…………」
「現実…として」
榊は黙り込んだ。
彼が言っていることに嘘はない。
そう思った。
それを受け入れられるかどうか。
それを信じられるかどうかは自分にかかっているのだ。
「そうでなければ、俺一人の『力』じゃ無理だ。今回は力尽くで引き剥がすことができたとしても、いずれこの霊は戻ってくる」
(霊?ここに見えている統は実体じゃない?)
榊は驚いたように顔を上げた。
バーンに言われたひと言が信じられなかった。
「オッド先生、統は、彼は死んでいるの?」
目は涙でいっぱいだった。
「残念だけど。5年前に、事故で……」
「え!?」
思わず聞き返してしまった。
「今は…君の右腕の傷に取り憑いている…浮遊霊だよ…」
榊は左手でもう一度右腕の傷を力一杯押さえた。
予想もしていなかった事実を聞いて動揺を隠せなかった。
彼がもうこの世の人ではない。
その事が安堵の感情と同時に驚愕の感情を産んだ。
自分の心の奥底にしまい込んできた何かが表面化してきていた。
「そう…」
固くまぶたを閉じるとあの頃の自分の姿が見える気がした。
何かを決心したように、自然に口が動いていた。
「大学4年生の時にね、」
「…………」
「統と付き合っていたの。ピアノの専科でお互いにライバルだった…。統は演奏も作曲もセンスが良くてね。みんなの憧れだったわ」
震える声で話し始めると榊はそのまま頭を彼の胸元に押し付けた。
バーンは身動きせずに彼女に胸を貸していた。
ただ、真っ正面の暗い影の方を見つめたままだった。
「ふたりでプロのピアニストを目指していた」
(ピアノの鍵盤は私にとっては自分の指よりも身近なもの。
ピアノの音は私の声。
どんなことでもそれで表現できるようになりたかった…)
「でも、」
ぼんやりとバーンの胸で前方を見ていた榊がつらそうに目を閉じた。
「知らなかったの。ものすごく執着する人だって。自分の思い通りにならないと怖い人だって」
「…………」
「それから、怖くなって私の方から別れ話を切り出したわ」
榊の右手が震えながら彼のシャツを握った。
その手はまるで何かにすがるようだった。
「そして、私は統に刺された。誰もいない練習室に呼び出されて、ピアニストの命ともいうべき右腕を斬りつけられた」
自分の悲鳴が脳裏に甦ってきた。
防音になっている練習室での悲劇。
密室の恐怖。
「彼にはできない表現ができるわたしが、邪魔だったのかもしれない。それ以外には何もないのに…」
ドクドクと流れる血が自分の周りに池を作っていく。
床に倒れ込んだまま、痛みに耐えながら叫んでいた。
その様子を上から勝ち誇ったように見下ろしている男がいた。
血だるまになったナイフを右手に持ったまま立ち尽くす男。
その表情は満足げに見え、彼女には理解しがたいものに映った。
「傷は深くて、お医者様にはもう動かないだろうってまで言われた」
話せば話すほど声が震えていき、最後の方はかすれて聞こえなくなっていた。
「それでも夢は捨てられなかった。ずっと小さい頃からピアニストになる夢を抱えて音大に来たんだもの。あきらめられなかった」
彼女の声をバーンもまた同じようにつらそうな表情で聞いていた。
無表情の彼にしては青ざめているようにも見えた。
それは彼女の話を自分の体験に重ねているようにも見てとれた。
「1年半、つらいリハビリにも耐えたわ。せめてもう一度、鍵盤を叩いてステージに立って演奏したかった」
ここで彼女は言葉を切った。
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