第32話 傷痕(5)

「どんなに彼女が好きだからといって決めるのは…お前じゃない。…彼女だ」

『その女は俺の物だ』

「なぜ…苦しめるんだ。大切な人じゃないのか!?」

『その女は俺の物だ』

「お前はもう死んでいるんだ。これ以上…彼女に関わるな」

『誰にも渡さない。誰にも~』

両腕を大きく振り上げてバーンの作っている障壁に思いっきり叩きつけた。

それでも侵入することはできないが、見えない透明な何かが衝撃を同心円上に吸収し、そして消し去った。

「…………」

バーンは口を噛んだ。

狂気を帯びている霊に何を言っても効かないことはわかっていたのだが、それでも言葉で説得したかったのだ。

彼もどこかで信じていたかったのかもしれない。

どんなに狂っていても好きな女性ひとに危害を加えるなどしてほしくなかった。

その女性ひとを目の前にしたらやめるのではないかと。

そして良心というものの存在を。

「…………」

腕にかかっていた重さがふっと軽くなった。

バーンは下を見た。

「オッド…先生」

力のない声で榊が口を開いた。

「気がついたの……か」

薄ぼんやりとまぶたを開けながら、微かにうなずいた。

頭を動かして横にすると広がる情景に目をやった。

黒い影と目が合った。

血走った目を見た一瞬、身体をこわばらせた。

何か嫌なことを思い出したのだろう。

反射的に左手で右肘を強く押さえた。

「…統。」

ひと目見て、ぽつりと悲しそうに名を呼んだ。

「悪夢は悪夢として…一生続くの…ね?私はそこから逃れられない」

「…………」

「ずっと…」

榊の身体が小刻みに震えだしていた。

彼女の目から涙が一筋流れ落ちた。

頬を伝った涙がバーンの腕を濡らした。

「そうだな……」

穏やかに同意した彼もまたラシスのことを思い出していた。

悪夢としかいいようのない8年前の12月25日を思い返していた。

「悪夢になってしまった過去は…もう変えようがない…」

もしかしたら榊も自分と同じ想いをしたのかもしれないと思い始めていた。

大切な何かを護れなかったのではないのか、と。

それを引きずって生きてきたのではないか、と。

「でも、」

バーンは榊の顔の覗き込んだ。

「未来なら…変えられる」

榊の瞳を覗き込みながらまるで自分に言い聞かせるように話していた。

彼女も彼の金色の右眼を見つめていた。

これで見るのは2度目になる金色の瞳を。

「これから起こる未来なら……」

「そんなこと無理よ。私は彼に追い回されて、また、あきらめるしかない」

激しく首を振って否定したかと思うと彼の視線から逃れようと身体をよじった。

そして、両手で顔を覆い隠すのだった。

泣いている顔を見られたくはなかったからだ。

「夢も自分の気持ちも人生も!」

「いや…」

バーンは彼女に静かに語り続けた。

「無理じゃない。方法は…ある」

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