第9話 旋律(4)
「しばらく動かないで………」
下がっていた左手がコブシとなり、胸元にあてがわれた。
そして、両眼を閉じ、まぶたの裏に二重の魔法円を思い描いた。
眼を開けたまま法術を行ってもよかったのだが、右眼の変化を彼女に見せたくはなかった。
(Mor-Dial-Hktga Ikzhikal Oip-Teaa-Poke
Edlprnaa Oro-Ibah-Aozpi Bataivah
Mph-Arsl-Gaiol Raagiosl
Gigipa-Ollog-Napzs-Olprt
Olap-Lama-Amad-Pado)
口には出さず、心の中で呪文の詠唱を始めた。
自分の身体が薔薇色の靄に包まれ、満たされ、充足していく。
そのエネルギーを左手のコブシから一点に集めて、榊の身体に送り込むのだ。
榊は自分の体が熱くなっていることに気づいた。
その熱はバーンの手を通して送られていた。
波打つように、じんわりと広がっていくような感じだった。
あたたかい何かに包まれている気がした。
身体から余計な力が抜けていくような、そんな気がした。
(我は汝に呼びかける。
偉大なる癒しの王よ…
汝の癒しの力を我を通じて…この地に染み込ませよ。
見よ、息をするあらゆる存在の
生気に満ちた息は
光の剣なり……。
我は…我が神への内への道を取り戻す者なり
その神の名を称える者なり
輝く光とともに…満ちあふれんことを願うなり…)
深く長い長い深呼吸をして、ゆっくりと眼を開けた。
彼が黙っていたのはほんの5分程度だった。
榊もほんのり桜色になった頬で立っていた。
自然に二人の手が離れた。
榊は下に下がるはずの手を途中で止めた。
右手に左手が添えられ、まるで手を合わせて祈っているようだ。
「!?」
(?腕が!?まさか?)
「これで、少しは痛みが…和らいでいるはずだよ」
目を見開いたまま動かなくなってしまった彼女を穏やかに見ながら、確信に満ちた口調でバーンが言った。
「ヒジの痛みとしびれが…」
さっきまで刺すような痛みが走っていたはずなのに、それが嘘のように消えていた。
痛みだけをどこかに置いてきたような感じだった。
心なしか腕さえ軽くなっている気がした。
「古い傷みたいだけど…。あまり無理はしない方が…いい」
それだけ言い残すとバーンは榊から遠ざかって部屋を出ていこうとした。
扉に再び手を掛けた途端、背後から呼び止められた。
「あ、あの。」
バーンは振り返って彼女を見た。
ちょっと頬を赤く染めた彼女がいた。
「ありがとうございました。オッド先生」
ここまでは一気に言えたものの、この先は何を言ってよいのかわからなくなってしまった。
戸惑った表情で言葉を探していた。
彼は彼女からの言葉を待っていた。
「…………」
「不思議ですね」
「…………」
「このあいだはあんなに怖かったのに。今は全然怖くない。どうしてかしら?」
首を傾げながら、感じたままを話した。
稲荷の件ではすべてを拒絶していたのに、今はそうではなかった。
言葉として理解していない彼女のために口に出すことにした。
「それは…あなたの意識が変わったせいだろうな…」
「意識が変わった?」
「ああ。きっと、こういうものもあると多少は認めてくれたから……」
この世界で暮らす者は必ず眼に見えない何かに縛られている。
いつ、いかなる時でも『心』は影響を受けているものなのだ。
『心』が変われば、感じ方や考え方も変わる。
その最たるものといったところだろう。
常識という色眼鏡で見ることから解放された者は、感覚や直感に従って物事を見るようになる。
そこにあるものをありのままに受け入れられるようになる。
そうバーンは思っていた。
「オッド先生って『そういう世界』が見えるんですよね?」
神妙な顔で榊が聞いた。
以前のように疑ったようではなく、ある程度の確信を持って聞いていた。
「ああ。」
「怖いと思ったことはあります?」
「…あるよ。何度も。」
「……」
「死にそうになったことも…。でも、それ以上に救いを求めて叫び続けている…声なき声を聴き、手を差しのべることが……俺に課せられた
(ラティの命を犠牲にした俺に課せられた贖罪は…一つでも多くの魂を救うことなんだろうか?
それが、俺に何をもたらすのかまではわからないけど…それでも……)
「そう思ってる。」
微かに榊がうなずいた。
ここまで素直に自分のことを話したことがなかったバーンは急に恥ずかしくなった。
臣人とはこんな話をしても、臣人以外、しかも異性にしたことがなかった。
自分の想いを言葉で告げる。
こんな何でもないことが、自分にとっては新鮮極まりないことだった。
ふぅっと軽くため息をつくと肩から力を抜いた。
「何、話してるんだろ…な」
自戒するように自分に言い聞かせた。
微かに口元に笑みを浮かべたようにも見えた。
榊も嬉しくなっていた。
「じゃぁ…」
「あ、待って。」
再び呼び止められてバーンは戸惑った。
「榊先生?」
「お礼にって訳じゃないんですけど。何かリクエストあります?」
えっ?という顔をした。
「全曲弾ききれるかどうかは自信ありませんけど。もし、聞きたい曲があれば」
「…………」
驚いた顔で聞いていた彼の表情が変わった。
「…ありがとう」
榊にはバーンがほんの少し笑ったように見えた。
頑ななまでに表情がなかった彼とは全く違って見えた。
そんな彼の顔を見ることができて榊も嬉しかった。
「…………」
バーンは思いを巡らせた。
聞きたい曲、弾いてもらいたい曲を探したが、音楽が専門でもない彼にはタイトルもわからない。
ただ何となくフレーズが浮かぶだけにすぎない。
あの曲は母との接点。
懐かしい過去を彷彿させる曲。
「さっきの曲…もう一回弾いてくれないか?」
「ええ。でも途中で指が動かなくなって聞き苦しいかもしれませんよ」
「大丈夫…だよ。……きっと」
二人は互いに微笑みあった。
「そんなところでは何ですから、どうぞ中へお入りになって」
榊はさらに扉を開けると彼を中に招き寄せた。
バーンも気を取り直して、音楽室へと入り直した。
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