第7話 旋律(2)
カタタタ。
カタンッ。
その物音にびっくりし、弾かれたように榊が入り口に視線を向けた。
バーンは扉に手を掛けたまま、音楽室の中には入らなかった。
「オッド先生」
「・・・・」
「どうかしまして?」
自分の動揺を隠そうと努めて普通どおり振る舞おうとした。
今、自分がどんな顔をしているかは察しがついた。
きっと情けない顔をしているに違いなかった。
そんな彼女のことを分かっているのか、バーンは距離を取ったままだ。
榊は入ってこない彼を不思議そうに見ていた。
まるで彼女の聖域に踏み込むのを躊躇っているようにも見えた。
「ピアノの音が……聞こえたから……」
長い沈黙のあとぽつりと彼が呟いた。
「お恥ずかしいですわ。あんなひどい演奏」
「想いがこもっている……やさしい旋律だったよ。懐かしかった…」
「懐かしい?」
「…………」
ここまで言っておいて、先のしゃべるのを一瞬躊躇った。
「昔、母がよく弾いていた曲だった」
「まあ、バーン先生のお母様が。お元気なんですか?」
何気なく言ったつもりの一言にバーンの顔がうつむき加減になり、表情が曇った。
「…………」
一息つくように、沈黙が続いた。
気を取り直して、顔を上げると彼女を見た。
榊はそんな彼のちょっとした仕草を見るのにもドキドキした。
「いや……もう、逢えない」
「え?」
「俺が10歳の時に飛行機事故で…」
事情を知らない榊を責めているわけではなかったが、こんな話を臣人以外の他人にするのは初めての経験だった。
はっとして、彼女も言ったことを後悔した。
「ごめんなさい」
「榊先生が謝る事じゃ…ない」
「でも。」
悪いことをしたという顔だった。
それを見ながら、バーンは榊のことを気遣っている自分の気持ちに気がついた。
この学校で働くようになって1年半になる。
こんな何気ない会話ですら、彼女とあるいは他の職員とすら今までしたことがなかった。
「…………」
「オッド先生、」
再び黙り込んだ彼を怪訝そうに見つめた。
もしかしたら自分の言った言葉に気を悪くしたのではないかと心配だった。
表情からはなかなか読むことのできない彼の心を推し量ろうと必死だった。
そんな彼女の様子を知ってか、穏やかな口調で言った。
「久しぶりに……母の姿を鮮明に思い出せたよ」
「お優しい方だったんでしょうね。先生を見ているとそう思います。」
「…………」
あまりはっきりとは残っていない母の姿を思い描こうとした。
幼かった自分に残された記憶はあまりにも少なかった。
兄アレックスを通して知ったことも多かった。
母と自分との共通点。
アレックスがいれば「ああだ、こうだ」と何かしらの類似点を指摘してくれるのだろうが、外見的な特徴以外の共通点は自分自身では見い出すことはできなかった。
黙り込む彼の雰囲気に耐えられなくなったのか、榊がお喋りになり始めていた。
深呼吸を一つすると、背筋を伸ばした。
「私もひとつしゃべってしまってしまおうかしら?」
「…………」
バーンも驚いた顔でそういう彼女の顔を見ていた。
「これでもね、昔はプロのピアニストになるっていう夢があったんですよ」
榊は悲しそうに笑った。
その笑顔の影に一体どれだけの後悔が隠されているのか分からなかった。
ピアニストになりたかった女性が、今は高校の教師をしている。
この事実が一体何を物語っているのだろう。
「…………」
「でも、」
伏せ目がちになり、無意識に右ヒジを押さえた。
(あの時あんな事さえなければ)
「ちょっとしたことがあって声楽に転向したんですけど。」
(ピアノはあきらめざるを得なかった。
好きだったわ。
暇さえあれば、ピアノに向かっていた。
鍵盤に触れていれば時間を忘れてしまえるくらい好きだったのに。)
「…………」
「自分の身体を使って自分を表現するって事に関してはピアノだろうと、声楽だろうとそう変わりませんもの」
(そうやって自分を納得させるしかなかった…)
まるで自分に言い聞かせているような言葉だった。
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