第6話 旋律(1)
夏休みに入ってからというもの聖メサ・ヴェルデ学院高等学校から喧騒という喧騒が消えた。
時折、部活動や補習でやって来る生徒以外はいなく、校舎の中は静まりかえっていた。
そんな校舎の中をあてどもなく彷徨うバーンがいた。
別にどこかに行こうというわけではなかった。
なんとなく誰もいなくなった教室を見てまわりたかったのだ。
硝子戸の向こう側に映る整然と並んだ机と椅子。
参考書や辞書の入った本棚。
礼拝用のマリア像。
そんな物を見ながら自分には縁のない世界だと思っていた。
学校というこの場所は。
ここで働くことになろうとは夢にも思わなかった。
人が集まる場所がとても苦手だった。
それは今も変わらない。
しかし、それでもこの学校という場所が持つ不思議な魅力を確かめたかったのかもしれない。
ここで生きている人の想いを感じとりながら。
自分も同じようにここで生きていると。
校舎の中は私立高校ということもあり空調が効いていて、暑い外とは違って過ごしやすい。
生徒にとっては非常に勉学に勤しめる環境になっていた。
空調が効いているといっても、昨今の省エネや温暖化対策、ガソリンの値上げ等で肌寒く感じるほどではない。
心地よい冷気。
歩くと頬にあたる風がほんのり涼しいくらいだった。
北校舎にある音楽室からずっと音楽が聞こえていた。
榊だ。
夏だというのに七分袖のストライプ柄のYシャツを着ていた。
腕まくりすることもなく、袖のボタンはきちんとしめられていた。
そして、ただピアノに向きあっていた。
何かの想いを振り払うように、一心不乱に鍵盤に向かっていた。
目は開いていたが鍵盤を見ているわけではなかった。
自分の奏でる音楽とは別に彼女は何かに想いを馳せていた。
指は鍵盤の上を滑るように動き、まるで指そのものが意思を持って動いているように見えた。
激しい曲ではなかった。
ゆったりとしたテンポの曲だった。
どこかもの悲しいような。
どこか淋しげな、それでいてどこか優しい感じがする曲だった。
ピアノが旋律で話しかけているような感じだった。
その調べが音楽室の外にまで微かに漏れだしていた。
ちょうどその前を通りかかったバーンはふと立ち止まった。
(この曲……は…?)
廊下を歩く彼の耳にピアノの音が届いた。
聞き覚えのある曲だった。
懐かしい気持ちが甦ってきた。
どこかで聞いたことのある曲。
いつの頃か口ずさんでいた曲。
眼を閉じると甦る母の姿。
ピアノを弾き、微かにその旋律を口ずさんでいた。
その側に身を横たえでいた自分。
「……
幼い頃の自分から現実の姿に戻ってくるようにゆっくりと眼を開けた。
教室表示を見上げた。
「…第1音楽室」
閉じられた扉の向こうで今まで聞こえていた旋律が突然途絶えた。
「?」
金属のドアの向こうに人の気配を感じた。
異変を肌で感じたバーンは静かに扉に手を掛けて、ゆっくりと開けた。
隙間から内部を覗き込んだ。
ピアノの椅子に榊が座っていた。
「痛っ」
榊は、小さく声をあげるとつらそうな顔でピアノから顔を背けた。
鍵盤から指をはずしながら、悔しそうに口元に持っていった。
(この曲も弾けないなんて。
私の腕も、指も、もう使い物にはならないわね……)
右手は口元にあてたまま、左手は右ヒジを押さえていた。
グッと何かをこらえるように左手には力が込められていった。
悔しそうに目を閉じた。
そんな榊の姿を見ながら、バーンはさらに扉を開けた。
「・・・・」
カタタタ。
カタンッ。
その物音にびっくりし、弾かれたように榊が入り口に視線を向けた。
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