ハラキリ(その6)
角屋の番頭に、春霞の身請け話を確かめようと吉原・角町へやってきた浮多郎。
上野山下の脇坂弾正の屋敷の外で遭遇した深編笠の牢人が、ちょうど角屋から出てくるのを見つけ、用水桶の陰に隠れて、やりすごした。
角屋の番頭にたずねると、「春霞太夫の弟さんがたずねてきた」といった。
ここは、番頭に聞くより本人に聞くのがいちばんと、客がいないのを確かめてから、ずかずかと二階へ上がった。
「今しがた、弟の正一郎がやってきたので、父の切腹の図と遺書を渡したところです」
春霞は、浮多郎の顔を見るなりじぶんから切り出した。
「しかし、仇討ちなどとは、尋常ではありませんね」
これには、春霞は何も答えない。
「弟さんには、大坂屋の大旦那が身請けする話は伝えたのですか?」
これも、かなりきわどい問いかけだが、
「ええ。ありがたいお話ですので・・・」
それだけ答えると、春霞太夫は、くるりと背を向け、鏡に向かって昼見世の化粧をはじめた。
階下に降りて、
「太夫が教えてくれたが、大坂屋の大旦那が身請けするとか。おめでたいことで」
浮多郎が話を仕向けると、番頭は恵比寿顔になった。
亡八と呼ばれる人でなしの楼主にとって、安く仕入れた女郎に連日連夜客を取らせて稼がせた挙句に高値で売る落籍は、うまい商売だった。
「で、お披露目はいつごろで?」
「いやあ、それが大急ぎでということになってさ」
身請けに際しては、吉原町内とじぶんが世話になった見世への義理返しのお披露目をしなければならない。
その費用は、すべて客が持つ。
・・・大坂屋は、金は出すがお披露目の儀式は、すべて割愛したい、と申し出たようだ。
―「それだけ急ぐ事情が、大坂屋にあるのだろうよ」
政五郎は首をひねった。
「大坂屋にはお内儀がいるので、妾としてどこかに囲うのでしょうか」
家の事情によっては、御家人にして狂歌作者の大田南畝のように、妻妾同居などもないではない。
・・・お大尽の大坂屋万兵衛にかぎってそんなことはありえないだろうが。
―翌朝、大川の両国橋の千本杭に女の土左衛門があがった。
ふくれあがった白い溺死体の太ももに、「正命」と刺青がある以外は、着物も腰巻も大川の激流に流されて丸裸なので、女の身元の手がかりはない。
「腐乱具合から、丸一日は川の底に沈んでいたはず」との検死人の見立てなので、浮多郎が千住あたりの宿を当たることになった。
これは、岡埜が、
「太ももに刺青を彫ったりするのは素人ではない。だいいち陰門と乳首が使い込んで黒ずんでおる」
などと、余計なことをいったからだ。
千住宿を一軒一軒聞いて回ったが、はかばかしい成果はなかった。
・・・六軒目にして、ようやく、
「寿美ちゃんじゃないのかい」
という楼主がいた。
通いの女郎の寿美は、二日ほど休んでいるという。
楼主は、「正命」と、太ももに情人の名を彫っているのは、まちがいないともいった。
楼主に教えられた、大橋南詰の長屋をたずねた。
・・・障子戸を叩いて声をかけたが、応えはない。
しばらく待っていると、街道を歩いてくる深編笠の牢人が目に入った。
その姿を見て、「正命とは、正一郎命のこと」と、浮多郎はひらめいた。
「片山正一郎。角屋の春霞太夫の弟の」
正面に立つ牢人に、浮多郎は声をかけた。
牢人は深編笠を上げた。
それは、上野山下の脇坂弾正の屋敷の横の路地で、浮多郎を見つめた若い精悍な顔だった。
「情人の寿美はどうしました。大川にでも投げ込みましたか」
浮多郎がいうより早く、抜刀した正一郎の剣先が飛んできた。
すかさず十手で受け止めたが、刀のすさまじい風圧に気圧され、尻もちを突いた浮多郎を横目に、正一郎は駆け出した。
・・・その姿は、街道の先で、たちまち小さくなった。
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