第23話 断頭台の処女(その1)

 当分ノアイダ休ミ〼。彫鉄。

 それだけだった。

 東へ延びる省線電車の駅にほど近い長屋の一角に、彫物師彫鉄の自宅兼工房があるのだったが、入口には鍵が掛かって軒先に先のように書かれた木札がぶら下がって、風に揺られている。

 その家の前に立って、その木札をジッと見つめている女がいる。

 派手な柄の着物を着ているから女なのだろうが、その女はまったく無表情で、結い上げた髪は不自然でカツラに見える。

 何より女にしてはずいぶん身体付きがゴツい。

 そして、真っ赤に塗ったくった唇の間からは、時折先が二つに分かれた黒い舌が、チロチロと覗く…。

 その奇態な女が、やがて「チッ」と舌打ちして去ると、ややあって、向こうの角から、鳥打帽にトレンチコート姿の男が、右脚を引きずり気味にして、現れた。

 男もまた、彫鉄の家の前の木札をチラリと見やって、中の様子を窺うのだったが、すぐに女の立ち去った方へ、右足を引きずりつつ、これも立ち去った。

 男は、東部第七憲兵隊隊長、橘藤伊周中佐の車を運転していて、橘藤と共に丹波に撃たれた、若い下士官であった。


 ****


 祭壇の十字架に向かって、ひざまずいて熱心に祈りを捧げる丸山トミ子の姿があった。

 ここは牧師館の礼拝堂で、トミ子の自宅なのであった。

 トミ子が学校から帰って来てそろそろ一時間経つが、帰って来るなりトミ子はずっと祈り続けているのだ。

(雪ちゃんと平之助さんが、無事でいますように…)

 トミ子はずっとそれを、繰り返し繰り返し祈り続けているのだ。

 やがて、祈るのにも飽きてトミ子は立ち上がった。

(それにしても雪ちゃん、どうしちゃったんだろう…)

 数日前、雪華と校門の前で普通に別れたのが、最後だった。

 いつものように平之助が迎えに来ていて、二人は一緒に帰って行った。

 別に何の予兆もなかった。

 明日から会えなくなるなんて、そんなこと思いさえしなかった。

 次の日、雪華は登校して来ず、学校にも何の連絡もなかった。

 平之助も姿を見せなかった。

 その次の日も同じだった。

 直感的に、これは雪華だけでなく、平之助も関わっていることだと、トミ子は思った。

 そしてさらにトミ子が考えたのは、二人が駆け落ちしたのではないか、ということだった。

 そんな馬鹿な。二人は兄妹なのよ。

 しかし、とトミ子は思うのであった。

 あの兄妹は、不自然だった。

 詳しい事情はもちろんトミ子は知らないが、あの二人は本当の兄妹ではないと、トミ子は睨んでいた。

 兄妹と云うには何となくぎこちない、遠慮し合っているような態度は、付き合い始めたばかりの恋人同士と云った方が、ずっとしっくり来るものがあった。

 そして、いつまで経ってもそんな感じのままなのが、やはり本当の兄妹ではないが故のことなのだろうと、あくまで勝手に、トミ子は推測していた。

 それがついに、思い切って駆け落ちしたのではないか。

 そう考えてトミ子は夜の寝床の中で一人興奮していたのだが、同時にいささか妬けるのでもあった。

 それは、トミ子が雪華にも平之助にも、それぞれ淡い恋心を抱いていたからで、もし二人が本当に駆け落ちしたのなら、トミ子は同時に恋の対象を二つも失ったことになる。

 これは、二重失恋とでも称すべき現象であろうか。

 だが…。

 そんな妄想も、雪華の不在が三日となり、四日となり、だんだん日にちが経つにつれて、急激に色あせて行き、トミ子はそんな妄想をした罪悪感と共に、本気で雪華のことを心配し始めた。

 もちろん平之助のことも心配だったが、何よりもまず初めに考えるのは、雪華のことだった。

 実は昨日などは、トミ子は思い切って浦益まで行ってみたのだ。

 省線電車で川を渡り、浦益の隣町の最寄り駅で降り、そこから乗合自動車に揺られて小一時間。

 これは東京から浦益に入るのに、舟を使う以外では最もオーソドックスなルートなのだが、危険が多い、としてかつて杉戸松五郎が雪華に通学に使うことを禁じたルートでもある。

 だがトミ子はそんなこと知る由もない。

 ともあれ乗合自動車は浦益に着いた。

 あの日「帝国グランギニョール一座」の天幕テントを観に来た時と違って、浦益は人気ひとけの少ない、ひなびたというより寂しいというくらいの所であった。

 乗合自動車は浦益の中心部の、村役場の前に着いたのだが、そこは中心部とは云っても、川べりに木造の粗末な船宿が数軒並び、町中も同様に木造の、強風が吹いたら飛ばされそうな小さな家々が肩寄せ合うようにひしめき合う、何だか切なくなるような漁師町なのであった。

 そしてその道に敷き詰められた白い砂を手に取ると、それは貝殻を砕いたものであり、においを嗅ぐと、それは町じゅうに漂っている独特の空気のにおいを、ギュッと濃くしたようなにおいなのだった。

 来たはいいが、トミ子は早速途方に暮れた。

 ここ浦益で知っているのは、この前来た時に着いた船着き場と、そこから土手を上った先の、天幕が張ってあった広場ひろっぱだけだ。

 道を聞こうにも、午後も遅い時刻の浦益は本当に人が少ないのだった。

 村役場の他に警察署らしい建物も目に入るのだが、いきなりそこに入るのは気が引ける。

 それでも時折漁師らしい男女に出くわすのだが、彼らは無遠慮な、敵意に満ちているようにさえ見える視線をジロリと、セーラー服姿のトミ子に向けるだけであった。

 そのたびにトミ子はドキッとするのだったが、さらにはいきなり大きなトラックが、轟音を立て、道の貝殻の砂を巻き上げながら町中の狭い道を通過するのにも驚かされるのだった。

 それまで静かなだけに、その突然の轟音は、賑やかと云うより凶暴であり、禍々しくさえあった。

 何だかもうトミ子はいたたまれないような気になって、浦益に来たことを後悔した。

 もちろん雪華の姿を見ることも、平之助に出くわすこともない。

 雪華たちの家がどこにあるのかもわからない。

 この間浦益に来た時は天幕の中でゲロを吐いてしまったので、しばらく外で休んでから、また小舟に乗って送ってもらって帰ったのだった。

 櫓を漕ぐ平之助ばかりでなく、雪華も心配して、一緒に小舟に乗って付き添ってくれたのだ。

 だから、トミ子は雪華たちの住む家には結局行っていなかった。

 トミ子はとりあえず川沿いに出てみた。

 そこへ出るともう少し眺望が開けた。

 少し川上に、見覚えのある船着き場が見えた。

 そこまで土手の上を歩いてみた。

 しかし、「帝国グランギニョール一座」の天幕が張ってあった広場ひろっぱには、もう何も残っておらず、ただのがらんとした空き地に戻っていた。

 トミ子はとぼとぼと船着き場に行った。

 そこに、陽に焼けたいかつい面相(トミ子にはここ浦益の漁師は男も女もみなそのように見えるのだ)の男の漁師がいた。

「あの…」トミ子は勇気を振り絞って、おずおずと、その初老の漁師に訊いた。「杉戸さん…のお宅はどちらでしょうか。杉戸雪華さんって人の家なんですけど…」

「知らねえ。知らねえよ」漁師はトミ子を追い払おうとするかのように邪険に手を振って、吐き捨てるように答える。「俺は関係ねえ。関係ねえよ」

 これでもう、トミ子はすっかり怖気付いてしまった。

 ベソをかきたくなるような気持ちになりながら、トミ子はまた街中の方に戻った。

 そうやってもうしばらく、トミ子はあてどなく浦益の町をさまよったのだが、たまに出くわす他の漁師たちに、改めて訊くことはもう出来なかった。 

 浦益の警察署の前に出た。

 トミ子はようやく意を決し、その扉を開いた。

 まさかそれが、己の運命の暗転の序曲になるとは、トミ子は知る由もない。

 トミ子は受付で、さっき初老の漁師に訊いたのと同じ質問を、そこにいた警官にした。

 その警官は訝しげな顔をして、後ろの同僚と何やらヒソヒソ相談していたが、やがて親切に(とトミ子には思えた)道順を教えてくれたのみならず、さらには地図まで描いて手渡してくれた。

 別れ際には笑顔でトミ子に敬礼したその警官がトミ子の姿が見えなくなるとすぐにこの件を上司に報告し、ただちに私服の警官が自分への尾行を開始したことなど、これまたトミ子は知る由もない。

 教えられたとおりに行って、着いた先を見て、トミ子は驚いた。

 立派な門構えの、大きな屋敷だったからだ。

 だがその屋敷が、何となくただの豪農の家なんかとは違うように、トミ子には感じられた。

 その立派な門には、墨で太く黒々と書かれた「杉戸組」という大きな木の看板が掲げられ、門の上には金色の家紋が施されている。

 そして屋敷の四方は高い白壁に囲まれた上に、鋭い鉄の忍び返しがびっしりと並んでいる。

 いかつく、ものものしい造りであり、建物全体からピリピリとした緊張感が伝わって来る。

 決定的だったのは、門から時折出入りする、いかつい人相の男たちであり、「杉戸組」と名の入った法被はっぴを着ている者や、着流しの腕をまくっている者もいて、その腕には彫物がしてあるのだった。

 彼らのいかつさは、漁師たちのいかつさとは明らかに違うものだった。

 ここまで見れば、いくらトミ子であっても、ここがいわゆるヤクザの家(?)だと察しがつく。

 ちなみにこの日は、杉戸組では松五郎らの葬儀を終え、急に人の出入りも少なくなり、落日の寂しさがグッと如実に現れて来た、そういう光景をトミ子は目撃していたのだが、もちろん彼女にそんなことがわかろうはずもない。

 それよりもトミ子は、当然のことながら、深いショックを受けていた。

 雪華と平之助が、ヤクザだったなんて…。

 もちろん、事実はそうではない。

 雪華と平之助はヤクザの子女ではあるがヤクザではない。

 だがトミ子にとっては同じことだ。

 呆然としてしまったトミ子は、それから自分がどのように家まで帰りついたのか、覚えていない。

 もちろん、ずっと家まで浦益警察の私服警官に尾行されたいたことなど、気付くはずもない。

 その晩は遅くまで眠れなかったトミ子だが、目覚めた時には、やっぱり雪華のことが心配なのだった。

 トミ子は改めて思った。

 やっぱり雪ちゃんは、私にとってかけがえのない、とっても大切な、唯一の友だちなのだ。

 だから私は、たとえ彼女がどういう人であろうと、彼女の無事を祈って、祈って、祈るのだ。

 それをイエス様もマリア様もお望みのはずだわ…。

 トミ子は礼拝堂の十字架を見つめて、溜息をついた。

「トミ子」不意に背後から呼ばれた。「お客様だ」

 それはトミ子の父の丸山牧師の声であったが、普段と違う強張った感じだった。

「?…!」

 トミ子は振り返って驚いた。

 トミ子に似て丸顔で垂れ目気味の父、丸山牧師の表情が緊張している。

 が、驚いたのはそのためではない。

 その父の背後に、竜宮寺大助がニコヤカに微笑んで立っていたからだ。

 何故かそのさらに後ろには、派手な和服姿の大柄な女が、無表情で立っているのだったが。

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