第22話 血の祭り(その5)
真夜中の道をひた走る人力車が二台…。
時折出っくわす人が、一体何事かと過ぎ行く二台を見送るが、さりとてさほど気にする風もなく行き過ぎるのは、こういう光景が大して珍しいものではないからだ。
大方医者が急患で呼ばれたか、逆に急患を病院に運ぶのか、あるいは急な不幸に駆け付けるのか…。
ああ、私の身には起きないで欲しいものだ、ナンマイダ、ナンマイダ…。
行き過ぎる他人はせいぜいそんなことしか考えていない。
浦益に一軒だけある
そして二台の人力車は夜更けの二時半過ぎに、雪華の指定したとある場所に着いた。
日中は賑やかなその場所も、真夜中の今は人っ子一人通らず静まり返っている。
夜のこととてわかりにくいが、そこは四つ辻であり、人力車の停まった対の向かいにはあんみつ屋の看板が掛かっている。
雪華は辰や人力車のオヤジと徒弟に手伝ってもらって、平之助を下ろした。
真夜中でもあり、平之助の傷にも障るので、静かに静かにそれをやらねばならず、思いのほか時間が掛かった。
大江医院、と看板が掛かっている。
そして小さく、院長大江仁一、とある。
医院の入口の脇に玄関があって、そちらには呼び鈴が付いている。
雪華はその前に立ったが、押すのはためらわれる。
冷たい水の中を泳いだためか、それとも緊張のためか、雪華は背中の痛みを…いや、背中を斬られていたことさえも、忘れていた。
しかし今こうしてここに立ってみて、急にその痛みがぶり返して来た。
思わず顔が苦痛に歪むが、そんな顔を見せてはいけない。
「辰さん」雪華は小声で呼びかけた。「私、顔に血ィ付いてない?」
水の中を泳いで来たから、浴びた血はすっかり拭い去られているだろうけど…。
「付いてませんよ」辰は呆れ気味に答える。「でも背中の傷はまだ血が流れてますよ。女ってえのは、こんな時でもそんなことを気にするんですかねえ」
雪華はかすかに笑って、一つ大きく息をついて、そして、呼び鈴を押した。
すぐに玄関の灯りが点いたが、扉は開かず、中から女の声が「はい、何でしょう」と云った。
「急患です」雪華は声を潜めて答えた。「ケガ人なんです」
「わかりました。じゃ、医院の入口の方に行って下さい。今開けますから」
事務的な、テキパキした調子で女の声は指示する。
雪華は玄関の表札をふと見た。
大江仁一
雪緒
雪仁
とある。
雪華はいつもあの角のあんみつ屋からこちらを眺めやるばかりだったから、この表札を見るのは初めてであった。
初めて見て、軽くショックを受けた。
てっきり偽名を使っているものとばかり思っていた…。
雪華が医院の入口の前に来ると、その向こうに灯りが点き、複数の人の気配がした。
しかし、入口が開くまでに少し間があった。
辰が平之助を自分の肩に持たせかけて、やって来た。
「辰さん」雪華は囁いた。「辰さんも車夫さんも、ここで帰っていいわ」
「へっ」驚いて辰は声を上げる。「だって、若を中に運び込まなきゃ」
「私がするから。辰さんは杉戸のお母さんに早く平之助さんの無事を知らせてあげて。ただし…」雪華は辰の唇に指を当てた。「約束して。ここに平之助さんがいることは、今は云っちゃ駄目。後で私が知らせるから」
「でも…」
「ありがとう、辰さん」
そう云って雪華は辰に向かって手を合わせた。
辰はとたんに照れて、坊主頭をつるりと撫でた。
「イヤだなあ、よして下さいよ。…わかりやした、姐さんには若の無事は伝えときます…。それじゃ、お嬢もお達者で」
辰は辰なりに何か予感しているらしく、しんみりした顔になっている。
「杉戸のお母さんに、今まで有り難うございましたって、伝えてね。きっとよ」雪華は涙をこらえる。「辰さん、本当にありがとう…」
「お嬢、今生の別れみたいに言うのはよして下さい」辰も目を潤ませている。「なあに、きっと大丈夫ですよ。お嬢がまたお困りの時にゃ、こんな野郎ですが、いの一番に馳せ参じまさあ」
辰は指で目を拭ってニッと笑う。
雪華もつられて微笑む。
その時、医院の入口が開く気配がした。
「おっといけねえ」辰は急いで退散する。「こんなツラ見られたら、悲鳴上げられちまう」
辰は平之助を雪華に預けると、待っている人力車のオヤジの方へ行った。
辰はオヤジをを云い含めて、そのまま人力車に乗って帰って行った。
医院の入口が開き、雪華は慌てて向き直った。
髪を簡略に結い上げ、着物の上に白の割烹着を着た婦人が、入口の光を背に、立っていた。
顔が陰になっていても、不審げな表情と、その美しく整った顔立ちは見て取れる。
婦人の方も目が慣れて、そこに突っ立っている雪華と、その肩にぐったりもたれ掛かり、腹に匕首を突き立てている平之助の姿を認めると、たちまち表情を引き締めた。
「さあ、早く入って」婦人は緊迫した声で雪華に云い、振り向いて「あなた、大変」
婦人は平之助のもう一方の肩に自分の肩を入れた。
その向こうにボサボサの髪に丸眼鏡の男が、光がまぶしいのかそれとも眠いのか、目をしばたきながら、しかし動作はテキパキと入口脇の扉を開けた。
男は白衣を着ている。
「君」丸眼鏡の男が婦人に云った。「お湯だ。それから…」
何やら横文字の名称を幾つか云い、婦人は「ハイ」と云って、男と平之助の肩を担ぐのを交替した。
「こっちだ」男は雪華に云う。「ここに入れる」
そうして男が扉を開けた入口脇の診察室に平之助を運び込み、寝台に横たわらせるまで少々掛かった。
「すみません」雪華は出来るだけ丁寧に云った。「入口の灯を消して、扉には鍵を掛けてもらえませんか」
白衣の丸眼鏡男は、雪華をまじまじと見た。
「ここの院長は僕だ。そうするかどうかは僕が決める」云いながら、男は横たえた平之助の具合を調べ始めた。「もし何か犯罪にかかわっているのなら、僕には警察に通報する義務がある」
その時、診察室の入口で激しい音がした。
男と雪華は振り返り、男が「どうした」と声を荒げた。
婦人が薬品の入っているらしい茶色のビンやガーゼなどを、それを乗せた銀の盆ごと床に落としたのだ。
婦人が引きつった声を上げる。
「あなた、背中、ひどいじゃないの。どうしたの、この傷」
「何だって」白衣の男…院長の大江仁一も、雪華の背後に廻って、やはり声を上げた。「こりゃひどい。刀傷じゃないか。君みたいな女の子が、どうしたんだ。しかしこんな傷を受けて、よくそんな平気で…」
大江は言葉を失ってしまった。
雪華が虚空の一点を見つめて、唇を噛みしめている表情が、あまりにも悲壮さに満ちていたからだ。
「いや、いい…」大江はそう云うと、気を取り直すように、やはり呆然としている婦人に云った。「君、もっとガーゼを大量に持って来てくれ。それと消毒薬をもっと。あ、それから、入口の灯は消して、扉に鍵を掛けるんだ」
それからは、誰もが無言になってしまった。
婦人は大江医師の云い付け通り、入口の灯りを消し、鍵を掛けた。
大江と婦人は黙々とその職務をこなした。
雪華は黙って傍らに立ったまま、その様子を見ていた。
異様な緊張感が、小さな診察室の中に漂っているのだった。
しかし不思議とその雰囲気は、雪華にとって居心地の悪いものではない。
雪華はふと、別の気配に気付いて振り向いた。
診察室の入口に、パジャマ姿の十歳位の少年が立って、不安げに中を覗き込んでいた。
雪のように白い肌の少年であり、整った顔立ちが婦人そっくりであった。
雪華は少年に向かって微笑んで見せたが、少年はビクリと顔を引きつらせ、それから探るようにまじまじと雪華の顔を見つめて、そしてフッと奥へ消えてしまった。
平之助の腹の匕首を慎重に抜いた大江は、もうしばらくそちらにかかりきりだったが、ある程度処置を終えると、あとは婦人に任せて、雪華の方にやって来た。
婦人は平之助の腹に当てたガーゼの上に手を当てて目をつむって、何やらじっと祈っているような風なのだった。
治療と云うより、祈祷と云った方が良いような光景だった。
「さ、君の番だ。そこに座って、上を脱ぎなさい」
大江医師は診察机の前の丸椅子を雪華に指し示し、自分は肘掛椅子に座った。
雪華は大人しく指示に従い、背中を向けて椅子に座る。
突然、玄関の呼び鈴が鳴った。
先程雪華が鳴らした、あの呼び鈴だ。
雪華の全身を緊張が貫いた。
思わず右腕に、気が漲った。
まずい。
こんな状態の手をもし誰かが触りでもしたら、それだけでその人の手は切断されてしまう。
しかし右腕は平常に戻らない。
先程の、若い男の首を刎ねた感覚が蘇る。
斬りたい、斬りたい。
右腕が叫ぶ。
婦人と大江は困惑の露わな顔を見合わせた。
そして互いにうなずき合い、婦人は残って平之助の傍らに屈み込んだまま、大江医師の方が椅子から立って、雪華に「少し待ってて」と云い置いて、診察室から出て行った。
雪華は全身を耳にして、その方を窺った。
右腕を、そっと構えた。
思わず、立ち上がっていた。
玄関の方からボソボソとしたやりとりが聞こえて来たが、何か異変があった様子はない。
やがて、足音が戻って来た。
しかしそれは一人ではなく、二人のものだった。
大江医師に続いて、そのもう一人が姿を現した。
丹波だった。
そのとたん、雪華はその場に卒倒した。
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