第11話 月下の柳(その4)

 身を切るような寒風が川面を吹き抜け、空は重たくのしかかって来るような鉛色だった。

 雪華も平之助も吐く息は真っ白であった。

 もちろんこんな日でも、二人は小舟に乗って川を行く。

「あ…」不意に雪華が呟いた。「雪…」

 鉛色の空から、はらり、はらりとその冬最後となった雪が、舞い降りて来たのだった。

「私ね。私の名前…」雪華は舞う雪にまなざしを向けたまま、白い息と共に、まるで虚空に声を滲ませようとするかの如く、呟くのだった。「雪の中に咲く花のように、美しく、たくましく育って欲しいって意味で付けられたの」

 そして雪華は、平之助の方を見た。

 頬がポウッと紅く染まり、上気しているかのようであった。

 平之助は理由はわからないが、ドギマギしてしまった。

 その雪華のまなざしが、いつもに増して艶っぽかったからかもしれない。

 平之助は気を取り直して、訊いた。

「雪ちゃんの名前を付けてくれたのは、誰?」

「お父っつぁんと丹波さん」

 雪華は即答した。

 また丹波さんか…。

 平之助は心の中で舌打ちしたが、せっかくの話の火種が消えてはいけないので、慌てて言葉を継ぐ。

「雪ちゃんの本当のお父さん…。無常さん、いい人だったな。平之助坊ちゃんって呼んでくれて、いつも頭を撫でてくれた」

「お父っつぁんのこと、覚えてるの?」

 嬉しそうに雪華は平之助を見つめる。

「ああ」平之助は雪華の嬉しそうな表情を見るのが嬉しい。「とても懐かしいよ。雪ちゃんはお父さんに手刀を習ったんだよね?」

 さりげなく切り出したつもりだが、雪華の表情はたちまち、空模様と同じに曇ってしまった。

 平之助は慌てた。

「ああ、ごめん」平之助はしどろもどろ気味に謝る。「悲しいことを、思い出させちゃったね」

「ううん、いいの」雪華は微苦笑を浮かべて首を横に振る。「そもそも、私が切り出した話題だもの」

 しかし雪華はそれ以上何も云わず、次第に降る量を増して来た雪に目をやって、その中に自分の右手をかざして、じっと見つめるのだった。

 その黒髪を雪がだんだんにうっすらと覆ってゆくのだが、雪華はそれを払うそぶりも見せない。

 平之助は黙って櫓を漕ぎつつ、雪華が言葉を発するのを待った。

 幾分そそっかしい平之助だが、この時ばかりはそうした方が良いと、直感的に思った。

「杉戸のお父さんは手刀を使っちゃいけないとおっしゃられたけど」雪華は右手を見つめたまま再び話し始めた。「私ももちろん、金輪際使うつもりはないけれど、でも…」

 雪華は舞う雪に再び目を走らせ、そして平之助を見た。

「一旦覚えちまった術はもう二度と身体からは抜けないって、お父っつぁんに云われたわ。そして、それは事実よ。この右手、しょっちゅう疼くの」

「疼くって」平之助は間抜けに訊いた。「痛むのかい」

 雪華が軽やかに笑った。平之助はギクリとした。それは、子供の笑い方ではなかった。

 初心うぶな平之助はもちろん実際の所を知っている訳ではないのだが、女が男を嘲って笑う時の声というのは、多分こんな感じなのだろう、と瞬時に思った。

「違うわ」雪華は声をグッと低めた。「右手が斬りたい斬りたいって、叫んでるのよ」

 そう云った刹那の雪華の表情に、平之助の背中は思わずゾクリと粟立った。

 それももはや、子供の表情などではまるでなく、凄艶、とでも呼ぶより他にない表情だった。

 平之助はすっかり雪華の気に呑まれて、それ以上言葉を継ぐことが出来なかった…。

 …以後、二人の間には、ぐっとくだけた、兄弟のような親和感と、それとはまったく裏腹な、真剣で勝負をするが如き、薄氷を踏むような緊張感とが、常に同居するようになった。

 平之助は、マモノや手刀術について、興味本位で安易な質問をすることは、ますます出来なくなった。

 ただし、それ以外の普通の会話は、むしろますます活発になった。

 船路ふなじの間中、喋り続けていることも珍しくない。

 往々にしてそれは単なる冗談の応酬となって、お互い腹の皮がよじれて痛くなるほど笑い続けることになったり、時にはつまらぬケンカになったりすることもあった。

 どうあれ、この二人の様子を見ず知らずの他人が見たらこう思うであろう。

 何とまあ仲の良い恋人同士であろうか、と。

 それからまた、半年ほど過ぎた頃だった。

 冬が過ぎて春になり、夏も終わろうとする頃だった。

 雪華のセーラー服は半袖で、平之助も白の半袖ワイシャツ姿であった。

 雪華は、おかっぱだった髪を伸ばし始め、この頃にはそれが肩のあたりまで来ていた。

 雪華は陽光きらめく川面がまぶしいのか、目の上に右手をかざしていた。

 その姿が、平之助にふと、半年前のことを思い出させた。

 それで何の気なしに、平之助は訊いてしまった。

「まだ右手は疼くのかい」

 云ってしまってから、平之助は慌てた。

 己の軽率さに慄然としつつ、雪華の様子を窺った。

 雪華は右手をかざしたまま、表情に格別変化はなかった。

 ただ、返事をするまでに幾分かの間があった。

「ええ」雪華はちらりと平之助の方を見やりつつ、云った。「今でも毎日」

 雪華は意識していないのだろうが、そのまなざしはひどく艶然としたものなのだった。

 なぜ手刀のことを話す時になると、雪華は急にこう艶めいて来るのだろう。

 平之助はそう思ったが、それは口には出さない。

 雪華の方もそれっきり、また川の方を向いてしまって、何も云わない。

 平之助は何だか、おまえが口を挟むことじゃないと、拒絶されたような気がして、ちょっとカチンときた。

 それでつい、云ってしまった。

「その術は、すたれさせるべきじゃないな」

 カチンときたのはともかく、何故そんなことを口走ったのか、平之助は後になって考えてみても、サッパリわからなかったのだが、とにかくどうあれ、云ってしまったことは取り消しようもない。

 雪華は呆気に取られて平之助の顔をまじまじと見つめている。

 その表情が、却って平之助を暴走させる。

「それはとっても貴重な、マモノの術なんだ。僕はいろいろな本を読んで、マモノとその術の奥深さを知った。残念ながら軍は弾操術だけ採用して、手刀術は採用しなかったようだけど、でも、今にきっと、手刀術だってお国の為に役に立つ。いや、今はどの国もマモノの術を戦争に使うことしか思いつかないが、もっと別な、もっと崇高で平和的な、人類の為に役立つ使い道がきっとあるはずなんだ。いや、そうしなきゃならないんだ。手刀だって、きっと人のために役立つ方策があるはずなんだ。そのためにも、手刀術は廃れさせちゃ…」

「黙って!」

 激しく厳しく、雪華は叫んだ。

 平之助はギクリと絶句した。平之助は己の言葉にすっかり陶酔して、途中からはもう雪華の方など見ていなかったのだが、慌ててそちらを見返してギョッとした。

 雪華の頬は紅潮していたが、それより、そのまなざしのあまりの凄さに平之助はたじろぎ、思わず腰を抜かしそうになり、櫓から手を放してしまったほどだった。

 平之助は一介の木偶でくとなって立ち尽くすより他なかった。

 正直、小便がちびりそうだった。

「あなたに何がわかるって云うの」雪華は低く呻く。「あなたにマモノの気持ちなんてわからないわ。額に刻印されなければならなかった者の気持ちが、わかるはずないわ」

 雪華の目が、不意に潤んだ。

 雪華は平之助に背を向け、涙を拭った。

 突然船が揺れたので、雪華は驚いて振り返った。

 するとそこに、船床に膝をついてうなだれている平之助の姿があった。

「ごめん、悪かった。この通りだ、許してくれ」平之助は船床に両手をついて、頭を下げた。「僕が軽率だった。実に軽はずみなことを云った。雪ちゃんの気持ちを考えず、偉そうなことを云ってしまった。実に軽薄だった。軽蔑するなら、そうしてくれ」

 そう云って平之助は、さらに船床に額をこすりつけ、そのたびに小舟は揺れて川面を不穏に波立たせるのだった。

「いいわ、平之助さん」雪華は船べりをしっかり握りしめながら、云った。「わかったわ。わかったから、頭を上げて頂戴」

 平之助が恐る恐る頭を上げると、雪華は平之助から視線を外し、舳先の向こうの川面を見やった。雪華はやがて呟いた。

「云われなくても、手刀を廃れさせる気なんてないわ。と、云うより…」雪華は平之助に背を向け続けている。「私の身体にはこの術が染み付いちゃってるから、廃れようがない。もし、この術が私の身体から消える時があるとすれば、それは、私が死ぬ時よ」

 そこで雪華は平之助の方をチラリと見やって、「今のは杉戸のお父さんには内緒ね」と云って、微笑んだ。

 哀切と痛切と艶っぽさが同居した、複雑な笑みであった。

 そしてその瞬間、晩夏の空はにわかにかき曇り、空気はいきなり冷涼さを増し、ポツリ、ポツリと冷たい雨さえもが、降って来たのだった…。

 それが、雪華が浦益に来てちょうど一年ほど経った頃のこと。

 そしてさらに四年が過ぎているのが、今現在。

 雪華の髪はすっかり腰に届くほどに伸び、その物腰は少女のそれから若い女性のそれへと、変貌を遂げつつある。

 しかし、相も変わらず二人は小舟でほぼ毎日、川を上り下りしている。

 あんなやりとりがあっても、雪華は平之助の送迎を拒否したことは一度もない。

 雪華が拒否しないのなら当然平之助の方も拒絶する理由はないから、この送り迎えは雨の日も風の日も、滞りなく続けられた。

 そしてまた、何回目かの秋が来て、先程あんみつ屋の前で丸山トミ子と別れた二人は、またいつものように船上の人となっているのだった。



 突然、騒々しさがのどかな静寂を破った。

 それは、遥か遠くにあるうちは、単に熊ン蜂の羽音程度のが途切れ途切れに聞こえてくるだけだったが、次第に近付くにつれ、騒々しさを増して来る。

 雪華も平之助も、自然とその音の方に顔を向けていたが、お互い困惑と好奇の混じった表情を見合わせ、そしてまた、音の方向へと目をやる。

 川っぺリの土手を、川上の方から、土煙をもうもうと巻き上げた一団がやって来る。

 それは、三台のフォードのトラックで、荷台には何やら荷物を満載しているようなのだった。

 先頭のトラックの荷台には人も乗っている。

「あ、これ…」雪華が呟く。「ペール・ギュントだわ」

「何のこと?」

 平之助が訊くと、

「この曲…」雪華が答える。「学校の音楽の授業で聴いたわ。確か、ペール・ギュントの中の、山の魔王の宮殿、とか云うんじゃなかったかしら」

 そう云われるまで、平之助はこの騒々しい音が音楽なのだということにも気付かずにいた。

 武骨者の平之助が、おおよそ芸術などといったことに疎い、ということもあるが、むしろその、多分拡声器スピーカーを通じて拡散されている調子っぱずれの、割れ鐘が響くような音を音楽と聞き分け、かつ曲名を当てる雪華の聴力をこそ、褒めるべきかもしれない。

 どうやらその騒音…いや音楽は、先頭のトラックの荷台から聞こえて来るもののようだった。

 満載された荷物の中に蓄音器があるようで、そこでレコードを回しているらしい。

 トラックが近付いて、その姿がはっきり捉えられる位になると、その騒音の方も、何とも禍々しい雰囲気の音楽であると、いくら芸術に鈍感な平之助であっても、理解出来た。

 しかし次の瞬間には、雪華も平之助も絶句してしまって、もうそんな音楽のことなんかすっかり頭のうちから、吹っ飛んでしまった。

 トラックの荷台には、派手な赤の水玉模様の背広の上下を着た男が立っていて、メガホン片手に何かがなり立てていた。

「さあさあ、帝国グランギニョール一座のお出ましだ。おまえさんたちがこれまで見たこともない、珍しい見せ物を持って来たぜ。さあさあみんな、近所の衆をお誘い合わせの上、こぞって見といで寄っといで…」

 男はもう一方の手には金地に日の丸の扇子を持って、これをヒラヒラ振り仰いでいる。

 見紛うことはない。杉戸家の長男、源太郎であった。

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