第3話<カクヨム版>それぞれの夏休み


涼香in渋谷



 ギラギラとした日射しに、全身をあぶられているようだ。

 人口密度の多い東京の夏。コンクリートに閉ざされた渋谷の雑踏に立ち、涼香りょうかは意味もなく「あー」とうめいた。

 帰省したことを本格的に後悔したのは、この日が初めてだった。なによりも暑い。今すぐ麒美島きびじまに帰りたい。打ち寄せる波と海風の匂い。そしてクーラーが恋しい。主にクーラーが。

「せーんぱい」

 背中からかけられた声に振り返る。するとそこには、夏の暑さとは無縁の空間に生きていそうなはつらつとした少女が立っていた。滝口汐音たきぐちしおんだ。

 島外で見る彼女の印象は、あまり変わらない。私服も今どきっぽいものをセンスよく着こなしている。どこだって、如才ない少女である。

「久しぶり、滝口さん。元気そうだね」

「そう言うセンパイは、ゾンビみたいな顔をしていますねー。暑いの苦手なんですか?」

「そうだね、私も知らなかったけど、どうやら苦手みたいだ」

「なんですかそれ、おかしい」

 くすくすと笑う汐音だが、涼香は大真面目だった。なにより夏休みに、自宅と学習塾の往復以外のことをした記憶がない。

 麒美島女学院の生徒は、世間知らずのお嬢様ばかりだと思っていたけれど、もしかしたら自分もその中のひとりなのではないかと、芽生えた疑念がすくすくと育ってゆく。

 妹候補と連絡先を交換したのは、姉妹制度が始まって間もない頃だった。何人かとは頻繁にやり取りを続けていて、汐音はそのうちのひとりだった。

 夏休みに入り、涼香が都内在住であるという話題から、それならと遊びに誘われたのだ。

 ちなみに聞いた限りでは、真悠が秋田、汐音と千沙都が都内で、未華子が大阪、里帆が北海道。うららはなぜか教えてくれなかった。

「ほらほら、じゃあ早く涼しいところにいきましょうー。せっかくのデートなんですからぁ」

 この炎天下で、ぐいぐいと手を引かれる。しかしどんな魔法か、汐音の手のひらはひんやりとして心地がいい。

 わたしはあんまり渋谷来たことないんだよなあ、と思いながらも、引っ張られるままについていく。

「滝口さんは渋谷詳しいの?」

「え? 初めて来ましたけど」

「えっ」

 びっくりした。いかにも渋谷生まれ渋谷育ちという振る舞いをしているのに。

 汐音はあっけらかんと笑う。

「いい機会だから、東京観光です」

「おうちは東京にあるんじゃ?」

「あるだけですからねえ。だいたい、ひとりで遊びに行ってもつまんないじゃないですかー。あっ、センパイはおひとりさま平気な感じですか?」

「そこはあんまり気にしないかな。ごはんも塾の帰りにひとりで食べたりするよ」

「えー、センパイかっこいいー」

「そうかな……」

 言いながらも、涼香はなんとなく汐音の言葉を反芻はんすうしていた。

 誰とでもうまく付き合えそうな汐音で、実際学校でもいろんな人に囲まれているのに『ひとりで遊びに行っても』というのは、どういうことだろうか。

 あまり突っ込んで聞くのも申し訳ないと思い、それじゃあ、と涼香は汐音の前に歩み出た。今度は彼女の手を引く。

「だったら、渋谷に何度か来たことあるし、わたしに任せておくれ」

「わ~、頼もしい!」

 はしゃぐ汐音に付き合って、涼香は人混みをすり抜ける。別に姉でなくとも、上級生であることに代わりはない。

「あたし、友達とお洋服見てみたかったんですよー。あ、友達じゃなくて、センパイでしたね!」

「学校じゃないんだし、友達でもいいんじゃないかな?」

「じゃあ、涼香ちゃんとかー?」

「それはちょっと恥ずかしいかな……」

 ぐいぐいと距離を詰めてくる汐音に、涼香は苦笑い。

 しかし、今年はなんとも新鮮な夏休みを味わえそうだった。


 ***


 千沙都ちさとの家は、田園調布の住宅地にあった。広い庭があり、大きなバーニーズ・マウンテン・ドッグを飼っている。

 夏休みの間は、ガラス張りのリビングで愛犬の様子を眺めながら、日課の読書をするのが千沙都の好きな過ごし方だった。

「…………」

 自分用のリクライニングソファーに座って、千沙都はドキドキしながら、じっとタブレットを見つめている。

 物心ついたときから、なんでも買ってもらえた千沙都だったけれど、両親から与えられた唯一のルールは申告制であった。

 好奇心旺盛な千沙都はさまざまな種類の本に手を伸ばしたが、なにを買うにしても両親の目があるというのは、気恥ずかしいものだった。

 高校にあがった際、そんな生活に革命が起きた。

 電子ブックリーダーとして、タブレットをプレゼントされたのだ。

 これからはいくらでも、好きなだけ本を買うといい、と。

 クレジットカードを作ってもらい、無制限に親の目も必要なく本を買う権利を与えられた千沙都は、とても喜んだ。

 どんな本を買おうかな、と通信販売サイトをウキウキしながら見て回って。

 そして、好奇心を抑えることができなかった。

 買ってしまったのだ。今までは決して手に取ることも許されなかったような本を。

 そう……。ちょっぴり、いやらしい本を……!

 夜、頭まで布団をかぶって、暗がりの中で初めて読んだその本は、千沙都に新たな世界を見せてくれた。ただ、その後しばらく、妙に悪いことをしたような気分になってしまったりしたのだけれど……。

 以来、千沙都はたびたびそういった本を読みふけるようになった。妄想癖に拍車がかかっていった。

「…………はぅ……そんな、こんな……」

 目を潤ませ、身悶えしながら本を読み進めてゆく千沙都。ときおり端末を胸に抱えて、天井を見つめながら熱いため息をつく。

「……千沙都は、いけない娘です……」

 恥じらいに顔を赤くしながらも、それでも趣味をやめられない千沙都であった。


 ***


「あれっ?」

 図書室に、驚くような声が響き、明日葉あすはは顔をあげた。

 そこには両手に本を抱えたうららがいた。ずしっずしっという足取りで、こちらにやってくるのでなぜか妙に身を固くしてしまう。

須佐野すさの先輩も、学院にいらっしゃったんですね」

「あ……うん」

 机に本を積み上げて、うららは「ふぅ」と息を整えながら肩を回す。

 夏休みの図書室はどこか使われていない講堂に似た静謐せいひつさに満ちていて、そこに立つ生命力に溢れたうららこそがまるで異分子であるかのようだった。もっとも、うららはまるで気にしていないみたいだけども。

「あの……吉村さんは、図書委員になったんですか?」

「違いますよー。きょうは本の整理を手伝っているんです。この機会に、学院中の生徒に貸しを作ってやろうと思って」

 明日葉は、素直にすごいと感心した。

吉村よしむらさん、いい人ですね」

「いえいえ、滅相もありません、これはあたしの野望で……って、いや待てよ……」

 顔をそむけたうららの、その目の奥がきらりと光る。

「下々の者に影響力を強くもつ須佐野先輩に評価していただければ、学院に評判が轟くやも……!?」

 自分はそんなに大したものじゃない、と否定する前に、うららが口を開く。

「須佐野先輩がもしなにかお困りでしたら、あたしが力を貸しますよ!」

 そんなにアグレッシヴに来られると、反射的に『間に合ってます』と言ってしまいそうになる。

「あの、大丈夫ですから」

「そうですか?」

「ええ。これは、私ひとりがやらなくてはならないことですから」

 うららが手元を覗き込んでくる。

 本に囲まれた明日葉は、キーボードのついた小さな機器を開いている。テキストファイルを入力することができる電子メモ帳だ。

「あ、すみません、邪魔しちゃいましたね!」

「そういうわけではないのですが」

 明日葉は高校生作家として、普段は文芸誌に短編を寄稿している。この夏休みはいい機会だから、長編に挑戦している最中だ。

 ただ、正直いって苦戦していた。大正時代の学園生活を描くために、たくさん資料を集めているものの、むしろ読めば読むだけ足りない気がしてしまう。

 だが、これはすべて自分でやり遂げなければならないことだ。

「あの」

 だから、どうして言葉を続けようとしたのかは、わからない。

「もし心当たりがあれば、この時代の本を持ってきてはもらえませんか?」

 昔は閉ざしていた扉を、ほんの少しだけ開いてみせる。

 必要があるとは思えない。だが、彼女は妹候補だ。

 姉として、これがふさわしい振る舞いだと思ったから。

 うららは一瞬だけ目を大きく開いてから、大きくうなずいた。

「はい、任せてください!」

 明日葉の意には沿わない行動だったけど、その笑顔を見ると、まあよかったかな、と思ってしまう。

 そこで、うららの携帯電話が鳴った。

「あっ、すみません。学院内で」

「普段は禁止されていますが、今は夏休みですから」

「あ、ありがとうございます。ちょっと失礼します」

 とたたと書架の奥へと引っ込んでゆくうらら。

 再び電子メモ帳に向かう明日葉の耳に、低い声が届く。

「も、もう、急に電話かけてこんで……。夏休みは帰らんって言うたやろう……。忙しかっちゃけん……」

 ふと、頭をあげた。麒美島女学院の生徒は地方からやってきた人も多い。明日葉も出身は岡山だ。別に、方言はそう珍しいものではない。

 明日葉も耳をそばだてたりはしない。しばらく、電子メモに向き直る。

 その後、ごまかすような笑みを浮かべたうららが戻ってきた。

「あの、すみません、えっと、資料ですよね」

「吉村さん」

 明日葉は小さく微笑んだ。

「標準語、とてもきれいですね。勉強したんですね」

 なまりを恥ずかしがる生徒のため、きれいな標準語の話し方講座も開かれている。明日葉も中学一年生の頃は、よく通ったものだ。

 うららの顔が、ぱっと赤くなる。

「そ、そんな、えっ!? 聞いてました!? ナイショにしてくださいよ!」

 血相を変えることでもないのに、と思う。

(博多弁、かわいかったのに)

 それを口に出すと彼女を困らせそうだから、黙っていることにした明日葉であった。


 ***


 未華子みかこは静かに目を閉じている。

 心の中は澄み切っていて、まさしく無の境地だ。

 夏休みを利用して、未華子は近所の寺の座禅体験会に参加していた。足を結跏趺坐けっかふざに組み、手はへそに当て、深くゆったりとした呼吸を心がけている。

 麒美島女学院での生活は豊かだが、恵まれすぎているのだ。この夏を利用して、ワンランク上の聖母になるため、未華子は自分を追い込むことにした。その第一歩が、座禅だ。

 思わずほくそ笑む。

 あの吉村うららという女は、夏休みを利用して姑息にも点数稼ぎに励んでいるらしいが、しゃらくさいことだ。

 自分は、一回り大きな存在になって帰ってくる。夏休み前とはまったく違う聖母力に、うららも敬服せざるをえないだろう。ふふ、ふふふ、二学期の始まりが今から楽しみだ──。

 そこまで考えて、未華子はカッと目を開いた。

「叩いてもらえます!?」

「えっ? ああ、はいはい」

 警策きょうさくを持った僧に頼み、未華子はパシンと背中を叩かれた。左右三回ずつ。

 叩かれやすいように倒していた上体を起こして、合掌する。叩いてくださってありがとうございます、のお礼だ。

 テレビなどでは邪念を抱いているとパシーンと叩かれるものだが、実際は眠くなったり気合を入れたいときにこちらからお願いするのだ。

 鋭い痛みは、ほどなくスッと消えてゆく。

 未華子は内心でかぶりを振った。

(いけませんわ、こんなことでは……。私は宮原未華子みやはらみかこ、宮原未華子なのですから……もっとこう、格調高く生きなくては……)

 背筋に鉄芯を挿入するような気持ちで、胸を張る。

 精神の集中し直しだ。

(また新しいお姉さまと、一から関係を築くことになるかもしれないのですから)

 そう、だからこそ、これまで以上に気を引き締める必要があった。

 誰の妹に選ばれるかはわからない。けれど、選んでもらえることは確定してしまっているから。その気の緩みが漏れてしまいかねない。

 惰性のような関係は、未華子の望むものではない。

(私はもっともっと、誰からも敬愛されるような存在に……。あるいはお姉さまですら、これからずっと自分のそばにいてほしいと、この宮原未華子に希うような妹になるために、ただとにかく努力あるのみですわ……)

 涼香が、明日葉が、あるいは帆南が、頬を赤らめながら未華子に指を伸ばす。そんな光景を想像し、思わず笑みを浮かべてしまって。

「はっ」

 目の前を歩いていた僧と、目が合った。

「…………お、お願いします」

 静かに、合掌。パシーンという音が遅れて響く。

 未だ、未華子の道のりは遠そうであった。


 ***


「おねえちゃん」

 声がして、ベッドに寝転んでいた帆南ほなみは頭をあげた。

 手元のスマホから視線を動かせば、薄く開いたドアの隙間から、里帆りほが子猫のような顔でこちらを見つめている。

 濡れ髪にタオルを巻いており、それだけで帆南は彼女がなにを求めているのか察した。

 だから、目を逸らす。

「髪ぐらい、自分で乾かしなよ」

「……ん」

「もう高校生でしょ」

 そっけなく言い放つと、里帆はそれでも餌をもらえるかもと期待した目で待っていた。無視をするのには、少しの意思が必要だった。

 決して甘やかさず、スマホに視線を落とす。

 しばらくして、里帆はようやく諦めて、とてとてと部屋を離れていった。

 妙な緊張感に縛られていたような気がして、帆南はため息をつく。

 まったく。明日葉の妹になってなにかが変わると思っていたけれど、実家に帰ってきたら元通りか。感情に波風が立ちそうになり、帆南はぐっと目の奥に力を込めた。

 里帆に振り回されるのは、もうやめたのだ。自分も彼女も、独り立ちするべきだ。

 すると、下からドライヤーの音がしてきた。

「……」

 帆南はベッドから降りて、立ち上がる。そういえば、部屋の飲み物が切れていた。下にある台所に向かう。

 その途中、あるいは洗面所を覗いてしまうかもしれない。別に、様子を見に行くわけじゃないけれど。

 ただ、もし彼女が拙い手付きで、中途半端にドライヤーをかけているようなら、それは少しだけ気にかかるかもしれない。

 里帆は美しい少女だ。父からも母からも愛情を注がれて、自分自身も常に美しくあるようにと、ある意味では呪いのように刻み込まれてきた。

 そんな彼女を羨ましくも、あるいは妬ましくも思う。どこにでもある普通の姉妹の話かもしれないが、ただ、ちょっとだけ不憫に思うこともあるのだ。

 だから。

「あ」

 と、覗けば、里帆はひとりではなかった。

 家事手伝いとして家に通っているお手伝いさんにわざわざ残ってもらって、髪を乾かしてもらっていた。

 すっかりと子育ての終わった老年の女性は、嬉しそうに里帆の長い髪を梳かしている。

「おねえちゃん」

 ドライヤーの音に紛れて、小さな声が聞こえてきた。

 相手にせず、歩き去る。

 結局、誰でも構わないのか。そこにいる人物に世話を焼いてもらえれば、里帆は満足なのか、と。

 また、心の奥がざわっとする。

 感情の線を振り切って、帆南は自分の部屋へと戻る。最初に降りてきた用事はなんだったか、その頃にはすっかりと忘れてしまっていた。


 ***


「ちょっと真悠まゆ、真悠―」

 ソファーに平べったくなって寝転んでいたその少女は、ぼんやりと目を開く。

 夏の夕暮れ、クーラーに当たりながら、午睡を貪ってしまったようだ。

 なんだか夢を見ていた気がする。たぶん学校の夢だ。みんなで一緒に……なにをする夢だったろうか。賑やかで、楽しかった気がする。

「真悠、ちょっとは手伝いなさいよ」

 マイバッグを肩にかけた母親が、リビングにやってきた。

「あー、ごめんねー」

「まったく、ずーっとゴロゴロして。ちゃんと宿題しているの?」

「もう終わったよー」

 一緒に、バッグの中の荷物を冷蔵庫の中にしまう。

「帰ってくるたびに、ちゃんと学校で生活できているのか、心配になっちゃうわね……」

「できてるよー」

 キャベツを野菜室に突っ込みながら、真悠はぽわんと視線を空に浮かべる。

「はあ、早く学校始まらないかなあ」

「暇に耐えられないなら、毎日私の代わりにご飯を作ってくれてもいいのよ」

「えー? お母さんのお仕事取っちゃうのは、申し訳ないもんー」

「まったくこの子は……」

 真悠は学校での面影をまるで見せず、えへへと相好を崩したのだった。


 こうして、それぞれの夏休みが過ぎ、新たな毎日が始まる。

 新たなる姉妹の関係が、また始まってゆくのだった。

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