居酒屋「妖時雨」にようこそ

渋谷楽

第1話 居酒屋「妖時雨」にようこそ

    居酒屋「妖時雨」にようこそ


        渋谷楽



 今日、じいちゃんが死んだ。末期ガンだった。夕方、桜を見ながら眠るように死んでいった。


 一輪の花が散っていく。そんな表現がピッタリだった。母は大泣きした。じいちゃんの身体に縋りついて、何時間も。しかし、じいちゃんはもう生き返らないことを悟ると、涙を拭った。


「帰ろうか」母がそう言う頃には既に外は真っ暗になっていた。車の窓を滑っていく桜を、ぼーっと眺めている。


「ハル、これ、おじいちゃんから」


 車を運転している母が、手だけを後ろに持ってきて、一枚の「紙」を手渡してくる。何も言わず受け取ると、二つ折りになっているそれを開いた。


「……遺書、ってやつ?」


「そうだね。父さん、あんたのこと可愛がってたしね」


 父親が家を出てから10年余り、母さんは女手一つで俺のことを育ててくれた。だけど、どうしても母さんの仕事が忙しいときは、よくおじいちゃんのお世話になってたっけ。


「……なにこれ?」


 そうとしか言えなかった。その紙に書いてあったのは、「晴樹、夜中店が終わった後、あのハイボールを作って待っていろ」という、意味不明な文章だったのだから。


「何だい? ハルが店を継げとでも書いてあったかい?」


「書いてねえよ、そんなこと。居酒屋なんて、今時流行らねえよ」


 じいちゃんの代から続く居酒屋は、村の中ではそこそこ有名な店だ。何でも、じいちゃんがこだわり抜いて作ったハイボールと、母さんの男勝りなキャラのウケが良いらしい。


 しかし、大学生の俺は、そんな店を継ぐ気には到底なれなかった。特にやりたいことは無いが、親が用意してくれた職に就くのは、何だか負けたような気がするからだ。


「そうかな? あんた、あたしの息子なだけあって顔は悪くないし、接客覚えれば、十分やっていけると思うけどねぇ」


「そういう問題じゃねえよ」


「……あちゃー、もっと根本的な問題だったか」


 母さんの声を無視して流れる景色を眺めていると、段々と畑の数が多くなってきた。家の造りも中心街のそれとは違って、傾斜の強い屋根が目立つようになってきて、嫌でも「帰ってきた」と思わされる。


「妖時雨」と彫られた看板が掛かっている店の裏側、家の入口に車が止まると、シートベルトを外した。


「父さん、孫に看取られて、幸せだっただろうなあ」


 急に東京から帰省してきて、色々経験しすぎて、疲れた。リュックを持って、さっさと車を降りようとする。


「ねえ、ハル。大学はどう? やりたいこと見つかった?」


「特には」


「……そういえば、これからまた忙しくなるからさ、仕込みだけでも、手伝ってみない?」


「うるせえな」


 母さんの肩が怯えたように跳ねるが、お構いなしに言葉を続ける。


「俺のことなんだから、放っとけよ。大体、じいちゃんとに会ったの久しぶりすぎて実感湧かねえし、帰ってくる度に俺のことに口出ししてくんのやめろよな」


「……ごめんね。気を付ける」


「……くそっ」


 くそだせえ。母親に当たって、一体何歳のガキだっての。仕事もせずにフラフラして、嫌なことがあったら家族に当たって、こんなのあいつと一緒じゃねえか。


「誰が酒屋なんて継ぐかよ」


 俺は、酒が大嫌いなんだ。


 脳にこびりついている父親の記憶を振り払うように、部屋のベッドに顔を埋めた。






「ん……んあ」


 すっかり熟睡してしまったらしい。顔に残っているシーツの感触と、焼けるような喉の渇きが、強制的にベッドから起き上がらせる。


「今、何時だ……?」


 机に置かれたデジタル時計の示す時間は「02時01分」だ。


「なんか、気味悪いな」


 街灯も無いから本当に何も見えない。携帯のライトを頼りに、台所まで向かうことにする。


「ん……」


 実家の一階を間延びさせたように、居酒屋「妖時雨」はある。もう、しばらく帰ってきていなかったから、何だかこの風景が新鮮だ。カウンターに入り、蛇口を捻ると、コップを一個取って水を注いだ。


「じいちゃん、本当に死んじまったんだな」


 子供の頃、夜中怖い夢を見ては、ここで晩酌をしているじいちゃんの話を聞いたものだ。じいちゃんは特にハイボールが好きで、早く酔わせようと比率を狂わせると、すぐにバレて拳骨を喰らった。そして、その光景を見ていた客が笑って……


 あれ、その「客」って、どんな人だったっけ……?


「ん、誰かいるのか?」


 物音がしたような気がして、辺りを見渡すが、誰もいない。カウンターに向き直ると、メニュー表の代わりに置かれているウイスキーが目に入った。


「……酒なんて」


 大嫌いだ。飲めば人を狂わせる。手軽に手に入って依存性が高い分、煙草なんかよりもよっぽど有毒だと思う。


 こいつのせいで、どれだけ痛い思いをしたかわからない。


「でも、遺言、だもんな」


 小さく愚痴りながらも、それ専用の冷蔵庫からグラスを取り出す。そこに氷を入れ、グラスが均一に冷えるようにマドラーで氷を混ぜる。


「一体何の銘柄だよ、これ」


冷蔵庫からラベルの剥がされたウイスキーを取り出す。これはじいちゃん専用だったものだ。キャップを取り、適量注ぐと、また氷だけ混ぜた。


 そして、炭酸水をグラスの端からそっと注ぎ、最後に底の氷をかきだすように優しく混ぜると、ハイボールの出来上がりだ。ここにレモンの皮を乗せたものを、じいちゃんスペシャルと言う。阿呆みたいな名前だが、律儀にレモンの皮を一枚、乗せてやる。


「……ほら、出来たぞ。じいちゃん」


声だけが空しく、店内に響き渡る。


「全く、簡単に死にやがって」


 俺が20歳になったら一緒に飲むんだって息巻いてたくせに、その直後に死んでんじゃねえか。最後は口も聞けなくなって、そして、遺言が、ハイボール作ってくれ、なんて。馬鹿だよ、あんた。


「でも、俺も、十分馬鹿だよな」


 不貞腐れるようにカウンターに突っ伏すと、店の扉が開かれた音がして、反射的に起き上がる。


「えっ、どちら様……って、うえええええ!?」


 こんな夜中に店に入ってきた「それ」を見ると、余りの衝撃に椅子から転げ落ちた。


「お、お前ら、何者だ!?」


 一人の女性が入ってきたかと思うと、その女性の首の長さに圧倒される。首がひとしきり中に入った後、随分遅れて胴体が入ってきた。その後ろに控えるのは一つ目の女性だ。顔の殆どの面積を占める大きな瞳に目を奪われていると、彼女らの間を縫うように一反木綿が入店してくる。


「正次さ~ん、死んでもお店ですか~。ひっそりとやるくらいなら、私たちの仲間に入れてあげても良かったのに~」


 ろくろ首は、そんなことを言いながら呑気にカウンターに向かって歩いてくる。正次、とはじいちゃんの名前だ。余りに突然の出来事に、状況を飲み込めないでいると、ふと、じいちゃんと遊んでいた頃のことを思い出した。


 じいちゃんと俺が遊んでいるところを、傍で見て楽しそうに笑っていた人たち。彼らはその実「人ではなかった」のだ。彼らは俗に「妖怪」と呼ばれる類のもので、この村一帯を彷徨う彼らを、じいちゃんは、ここ「妖時雨」に招き入れて一緒に飲んでいたのだ。


「あら、あなたは?」


「ひっ!」


 幾ら幼い頃に面識があるとはいえ、彼らの容姿は恐ろしい。尻もちをついたまま後ずさると、長い首に巻きつかれ、彼らのところまで引き上げられた。


「正次さんのハイボールの匂いがしたから寄ってみたけど、違う子ねえ」


「そりゃそうだべ。昨日の夕方、正次さんの魂を送り出したばっかりだべ」


「それにしてもこの子、若い頃の正次さんそっくりで男前じゃない」


「君、名前は?」


 異形の彼らに囲まれ、まじまじと見られると緊張して急激に喉が渇く。それでも、何とか声を絞り出した。


「は、晴樹です。二十歳の、大学生で」


「晴樹? ハルキ、ハル……ああ! 正次さんのお孫さんか!」


「ハル君かぁ、大きくなったねぇ。私のこと覚えてる?」


「正次さんのハイボール作って待ってたってことは、『悩み相談』、ハル君が継ぐってことでいいのよね?」


「へ? 何ですか、それ」


 俺の疑問を他所に、一つ目の女は、入り口に向かって手招きをする。


「いやー、実は、深刻な悩み抱えた子がいてねえ。新入りなんだけど。ほら、隠れてないで出ておいで」


「いや、あの、困ります。俺、そんなこと全然知らなくて……」


 手を伸ばし、制止しようとする。しかし、闇の中からひっそりと姿を現した「彼女」を見て、その姿勢のまま静止することになった。


「ほら、この子だよ。お前、お兄さんにちゃんと挨拶しな」


「あの、初めまして。リンと申します。元の姿は一輪草でした。今日は、宜しくお願いします」


 そう言って頭を下げ、上目遣いのまま顔を上げたリンと目が合う。肩まで伸ばした透き通った白髪が揺れ、心なしか甘い匂いが漂ってくる。サファイア色の瞳が美しい。身長から推察するに中学生くらいの年齢だろうか? 緑色のワンピースに春を感じる。


「……お悩みというのは、何でしょうか」


 気が付けば、そんな言葉が口をついていた。リンは恥ずかしそうに視線を泳がせ、しかしはっきりと俺の目を見ると、鈴の音を鳴らしたような声を響かせた。


「私、人間になりたいんです」


 丑三つ時、あの世の存在が活発に動き出す時間でも、春の陽気にかかればこんな不可思議な出来事が巻き起こるらしい。眩暈がして、しかし周りを見渡すと、皆既に席に座りカウンターに並んだ酒の銘柄を吟味しているのだから、諦めるように少女をカウンター席に案内した。


 容赦なく襲い来る注文を記憶し、血眼になりながらオレンジジュースを探したのだった。






「大体、何で人間なんかになりたいと?」


 まずその疑問が口をついた。冷えたオレンジジュースに手も付けないで、氷が溶けていくのを眺めているリンは、さらに申し訳なさそうに背中を丸めた。


「……実は、好きな人が、出来てしまって」


「ひゅーひゅー、熱いねー」


「カカさん、酔いすぎじゃないですか。お酒、もう辞めにしますか」


 一つ目のカカは激しく首を横に振る。


「じゃあ、ちょっと静かにしててくださいね。後で構ってあげますから」


「キャー! ハル君中々良いじゃない! おばさん、柄にもなくドキッとしちゃったわ~」


「ハルさんは」


 振り返ると、リンの背筋は伸びていた。


「ハルさんは、小さい頃のことは、覚えていますか」


「……いや、殆ど覚えてないな」


 俺がそう言うと、リンはくすっと笑った。


「そうですよね。私が好きになったその人は、子供の頃よく、私たち一輪草のところに遊びに来てくれていました。その頃から気になっていて、そして、大人になったその人を見たときに、ああ、お話してみたいと思いまして」


「……そう考えていたら、人の姿の妖怪になっていたと」


「はい、そうなんです。信じられないかもしれませんが」


「信じざるを得ないよ。こんな景色を見せられたら、ね」


 それぞれ個性的な姿かたちをした妖怪たちは、まるで人間のように昔話をしたり、未来について話し合ったりしている。しかし、彼らは人間の人生に干渉することが出来ない。人の姿でありながらも、想い人に触れることが出来ないのだ。リンの現状は辛く、厳しいものだ。


「ハルくーん! ハル君はもう、正式に正次さんの仕事継いだってことで良いのよね?」


 聞いているこっちが浮かれてしまいそうな、楽しそうな声の方を振り返ると、ため息混じりに答えてやる。


「いえ、まだわかりませんよ。大体、今日この店開けたのも、じいちゃんがそうしろって言ったからなんです」


「ええ、そんなー! 寂しいー!」


 すみません、と会釈してから、カウンター席に向き直ると、俺をぼーっと眺めているリンと目が合う。その顔に見惚れていると、気が付いたリンは誤魔化すようにジュースを飲み、視線を斜め下に向けたままぽつり、ぽつりと話し出す。


「間違っていたら、すみません……ハルさんは、お酒が嫌いなのですか」


「……ああ、嫌いだよ」


 手元に置いておいたハイボールを持ち上げ、溶け始めた氷を睨みつける。


「俺の父さんはよく酒を飲んでいてね。働いてもいなかったから、夜、酒を飲んでは、自分の人生が上手くいかないことを俺と母さんによく当たってた。それ以来、酒なんて、見たくもないと思ってた。けど……」


「けど?」


「今だけは、いや、これからは、少しだけ酒の力を借りようと思う」


 比率を間違え、口に近づけるだけでキツい匂いのしてくるそれを、一気に煽る。喉が焼け、脳が沸騰するような感覚を覚えるが、最後まで飲み干すと、カウンターに両手をついた。


「ちょ、ちょっと、ハルさん!?」


「俺、目標が出来た。この店、継ぐよ。だから、リンも、その人のことを想って、想い続けてほしい。想いはいつか形になるって、リン自身がそれを証明したんだから。もし、にっちもさっちも行かなくなって、本当にどうしようもなくなったときは、そのときは、また俺のところに来てほしい」


「ハ、ハルさん……わかりました。どうか、待っててくださいね」


 リンは、微笑みながらそう言った。


 それが、今から20年前の出来事だ。店を継ぐことを決めた俺は、それから母さんと一緒に店を回し、酒の勉強をし、最近になって、ようやく店を任せてもらえるようになった。


 唯一気掛かりなのが母さんの体調だが、それと同じくらい俺の頭を悩ませることは、この年になって彼女の一人もいないことだ。ハイボールを渡すと、常連さんに生暖かい視線を向けられる。


「ハル君、本当に今良い人いないの?」


「加藤さん、何回も言ってるじゃないですか。本当にいないですよ」


「もったいないなあ、イケメンで、お袋譲りの男らしい性格してるのに」


「それ、後で母さんに報告しておきますね」


 おいおい、それだけは勘弁してくれよ。そう言っておどける様を見て笑い、冷蔵庫から新しい酒を取ろうとするが、手が止まってしまう。


 あの時の俺は、若かった。精神的に不安定だったし、あれ以来リンとは会っていない。夢だったとも捉えられる。そろそろ俺も、現実を見て、身を固めなければ……


 その時、店の扉が開き、客の来店を知らせるベルが鳴る。


「いらっしゃい! 一名様、です、か……」


 緑のワンピースは春を連想させる。白く透き通った肌は、孤独に咲く一輪草を。黒く艶やかな髪と、どこか遠慮がちな瞳は、20年ぶりに心臓の高鳴りを感じさせてくれる。


 気が付けば、冷蔵庫を開け、ウイスキーを取り出していた。じいちゃんのものではなく、俺が選び抜いたものだ。大急ぎで、しかし丁寧にハイボールを作り上げる。あの時作ったように、たどたどしく、それでいて一生懸命に。


「あ、あの、これ、ハイボール、です」


 カウンター席に座った彼女に、それを差し出す。すると、彼女の美貌に目を奪われたのか、客の視線がこちらに集まっているのに気が付く。


「あ、あの、ハルさん。何で、泣いてるんですか……ふふっ」


「えっ」


 席を立ったリンの、柔らかいハンカチが目元に添えられる。


「もう、仕方ないんだから。20年前の約束、まだ覚えてて、私のこと、待っててくれて……にっ、二十年、ですよ……? ふ、普通、そんなこと」


「ああ、そういえば、好きな人と結ばれたか? まだだったら、俺に出来ることなら何でもするぞ?」


「もうっ……実は、まだなので、ちょっと手伝っていただけますか」


 ぽろぽろと涙を零すリンの、華奢な手を握る。それから頭に手を回し、抱き留めるように唇を重ねた。


 その時。


「ひゅーひゅー! お二人さん! 熱いねえ!」


「おめでとぉ! 20年越しに、恋愛相談解決だぁ!」


 店の扉を開け、妖怪たちが勢いよく雪崩れ込んできた。ある者は既にべろんべろんに酔い、ある者は提灯を持ち、そしてある者はパートナーを連れてきていた。


 某県、某村の居酒屋では、一晩だけ、あの世の者とこの世の者が酒を飲み交わしたことがあるという。


 それはもうどんちゃん騒ぎも良いところで、宴は翌朝日が昇り、妖怪たちが姿を消すその時まで続いたらしい。


 今の俺の生きがいと言えば、その話を、ハイボールを飲みながら、孫に話すことだ。



                 終わり

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