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先輩と会う約束をしていた前日に、僕は今年の春まで通っていた大学へ足を運んだ。家から電車を一度乗り継いで、40分ほどで着く距離にある学校だった。構内は門を通るとすぐに、歩道の脇に植えられた樹の陰に覆われて、暗くなる。学生ばかりで溢れかえる構内は、僕がそこにいることを良いとも悪いとも思わず、まるで無関心であった。僕のほうは、とうに捨てたはずの卒業アルバムをめくっているような、気味の悪い感覚に襲われた。死んだ者だけが住まっている墓の中に、生きた人間が一人紛れ込んでしまったような、生きた人間の住まう家に、もう死んだはずの人間が一人紛れ込んでしまったような……。
大学へやってきたのは、僕がここに置き忘れてきたある一冊のノートを、持ち帰って処分するためだった。それは僕が学生時代、退屈な授業を抜け出して大学の風景を書き溜めたノートだった。もっともそれは正確な風景の描写ではなくて、僕が目に映ったものを自分の思うままに歪めて描いたものだった。ノートの中には、文化祭のポスター用の絵だとか、人に渡すために描いた絵も混じっていて、そのうちの最後の機会に、大学生活に興味を失った僕は、ノートごと当時所属していたサークルの誰かに渡して、姿をくらませていたのだった。後でたまたま会ったサークルのかつての仲間にあのノートがどうなっているか聞いてみて、ノートがまだサークルの部室に置かれているということを知った。部屋の整理をしている時、そのノートのことを思い出した。あれは自分の手できちんと片づけないといけない、でなければ自分の大学生活に、けじめがつけられないままになってしまうという気がした。
昔のままであるならば、今日、部室に人はいないはずだった。たとえ誰かがいたとしても、気にせず中に入って、目的のものだけを持ち去ってしまえばよかった。部室棟に入って、そのまま部屋のある場所へと向かった。学生生活の記憶が甦ってくるようなこともなかった。ここはもう、僕の人生から切り離された場所に変わっていた。
部屋の鍵は開いていて、中には人がいた。見も知らぬ年下の誰かだろうと思っていたが、違った。それは同級生だった。しかも、一度付き合って別れた、かつての恋人だった。
全く予期していなかったことに、僕は全身が雷に打たれたように固まってしまった。金縛りにあったような状態だった。そして、彼女の目を見た。いったいそれは、僕自身の恐怖だったのか、彼女の恐怖だったのか分からない。いずれにせよ、体中から血の気が引いて、気が遠くなった。めまいがあったが、体は微動だにせず固まったままだった。何と言って僕がここにいるのを弁明すればいいのか。言葉が幾つも脳裡にひらめいて、最後に、何も口にしないのが一番いいと結論が下った。どんな弁明であろうと、僕から彼女に伝わる言葉は、状況を悪くするような効能しか持ち合わせ得ない。
それから、このまま踵を返して部屋から立ち去るべきなのか、それとも思い切って部屋に入って、ノートを取って、飛び出すべきなのかと迷った。そしてからようやく、今の彼女の気持ちと状況を勘案する所に至った。いったい、彼女はこれまでどうしていたのだろうか。どうして今日この時間に、この部屋に居て、椅子に腰かけているのか。彼女の手元には何かの書類が見えた……。
僕は結局、自分が彼女に対して何も変わっていないということを知った。そこには人間的な感情のようなものが欠けていて、狂人の理論だけがあった。
できることなら、ノートの位置をすぐに見つけて、素早く持ち去っていきたかった。けれど、見たところノートは部室の棚のどこにも見当たらなかった。もっと近くに行ってよく探せば見つかるかもしれない。それか、どこか別の場所に置いてあるのかもしれない。何にせよ、目的を果たして、この場をあっという間に去ることは難しそうだった。
十数秒、沈黙があった後だった。部屋を焦った様子で見渡し、どう身の振り方を選んでいいのかも分からずに立ち尽くしている僕を見て、彼女の中で、僕への恐怖よりも、幼い子供やみじめな者を見る憐みのようなものが増したのだろう。彼女は、どうしたの? と口を開いた。
僕は何度も見てきた彼女の優しさを思い出した。そして、胸に隠していた冷たい決意が、わずかずつ溶かされてしまうのを感じた。
「ノートを、取りに来て……」吃りながら、僕は答えた。
いろいろな過去の感情と共に、絶望がそのすき間から洩れだして、心の中を染めていった。それは、自分の決意が踏みにじられ、それに抗う力のない自分の無力への絶望だった。
彼女は僕が部室に入るのを許してくれた。本棚の近くに行くと、ノートのありかはすぐに分かった。ノートの背をつかんで引っぱり出し、パラパラと中身をめくった。懐かしい昔の絵だった。
ノートを持って部屋を出た。彼女と、何か言葉を交わすでもなかった。最後に僕は一言「ごめん」とだけ呟いた。声が相手の耳に届いたかどうか分からない。「ごめん」が、どういう意味で言われて、伝わったのか、それも分からない。多分、幾通りもの意味があった。言葉はいつか必要な形に消化されて、全ては落ち着くだろう。正しい言葉を選ぶ必要なんて、なかった。
大学からの帰り道、僕は安寧を胸に抱いていた。自分の手で一度殺したはずの安寧だった。僕はその安寧に包まれて、身もだえ、叫んだ。再びそれを燃やし尽くそうとして、言葉を吐き出した。
果たして、それは還るべき場所へと還った。
翌日、約束した場所に先輩はやって来なかった。一時間待った後で、僕は連絡を取ろうとすることもせず、そのまま自分の家へと帰った。
先輩が現れなかったことは、僕に、かつてあった調和がもう死んでいて、一度死んだものはもう生き返らないのだということを、教えてくれた。僕は絶望し、そして再び落ち着いた。
世界の持つ流れは僕をとらえていた。そして、決して僕を離すことがなかった。
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