友人と会う約束をしていたのは、それから一週間ほど先の日時だった。僕はその間に、思い出の場所や、行ってみたいと思っていた場所を巡った。特に、取り立てて書くようなこともなかった。全ては行く前から分かっていたことばかりで、僕はただそれらの確認作業をしてきたにすぎなかった。

 久々に会った友人は、昔と何も変わっていなかった。彼は、僕もまた昔と変わっていないと言った。僕は自分がこの一年近くで大きく変わったと思い込んでいた。それが錯覚にすぎないのならば、僕が歩く運命の形は、昔からずっと僕の中に宿っていて、ただそれに気づかれていなかったということなのだろう。

 橙色の電飾が灯った、小汚い感じのする大衆酒場だった。僕と友人は、大学時代ここに何度か通った。僕たちは、それほど密な仲でもなく、少なくとも顔の広いその友人にとっては、僕は大学の同級生の内の一人で、多少会う機会が多かったというくらいの仲だった。学科の中にほとんど友達を持っていなかった僕も、彼とは親交を持った。学科の同級生の中で、彼はほとんど唯一、僕が一種の尊敬を抱いた相手だった。大体において僕の人付き合いは、嘘や虚言を弄することが必要となった。それは相手の持っている世界観のようなものを壊さないためであり、僕が自分の孕んでいるタガの外れた狂気を相手に悟られないようにするためだった。しかし彼に対しては、そういう嘘はただ一まとめに“嘘”に堕してしまい、本当のことだけが言葉として意味を持った。彼は、自分が受け止めるものを全て公平に扱うことを、心がけていた。彼にとって都合のいい話や、彼の世界と共鳴するような事象だけを取捨選択することがなかった。自分の信念を持ちながらも、それが世界にとっての絶対の正義だとは思っていなかった。

 僕たちは近況についてを伝え合い、それから哲学めいた話をした。僕は、自分の口にすることがどれも、あまりに自明であり、口に出して他人の確認を得る必要はないということを感じながら、それでも喋った。僕は彼を、僕の最後の証人にしようとしていたのだ。僕の内に残っていたものを取り出し、全てを彼に託すために、僕は喋った。

 酒の席が1時間を越えたあたりで、僕らは店を出て、そのまま友人の自宅に行って飲み続けた。酔いが回った頭で、僕は喋っていた。

「ずっと、考えてたんだよ。誰かにただ人として興味を持つことができないのは、どうしてなんだろうなって。俺はずっと、そんな友達が欲しかっただけなんだよ。理由を必要としないで、そう、別に深い関係じゃなくていい、すれちがったら声を交わして、ただ通り過ぎることができるようなふわふわした関係でよかった。それが自然で、訳もなく生まれたものなら。俺のどこがおかしいのか、どこが狂ってるのか、どの歯車が足りていないのか、ずっと考えていた。けれど、結局まだ分からないままだ。どうすればいいのか。それは、きっと俺が死んでも変わらない気がする。だけど、どこかに答えがあるような気も、する。その、本当の答えの所を、掴まえられていないだけなんだって気が」

 友人は言った。「おまえの言ってることは、哲学だよ。そんなの、いくら考えたって答えに辿り着かない」

「そうかな」

「俺は、おまえの感じてることだとか考えてることが、話を聞いてもよく分からない。けど、おまえが悩んで見つけようとしてる答えの見つけ方だったら、なんとなくわかる気がする。それは、とりあえず生きてみることだよ」

 友人の言っていることの意味が、僕にはピンとこなかった。どうして、悩みそのものが分からないのに、悩みの答えの見つけ方だけが分かるなんてことがありうるんだろう?

 帰り際、彼からあることを教えてもらった。

「前に、電話でその子がどうしているか知らないかって、聞いてたろ。実は……ほんの、つい最近知ったんだ。人伝いに伝わってきて。事故に遭って、亡くなったそうだよ。つい最近。車に轢かれたんだって。……知り合いだったのか?」

 彼女は、死んでいた。僕が大学で一日限り出会った、“箱”を持ったあの人は、僕より先に、死んでいたのだった。

 僕は、これまでにないほど静かな気持ちで、帰路についた。そして家に帰ると、涙を流した。感動と、悲しみと……涙はそれらの感情の純粋な迸りであった。そこに一切のわだかまりは無くて、無表情の頬にただ涙が流れ落ちるだけであった。僕は、全てに満足していた。



 例の懐中時計は、どうしても蓋を開くことが出来なかった。僕はためしに、はめ込み式の時計の蓋を外すためのテコを買ってみた。それから、この時計の裏蓋と形や大きさの似た蓋を持つ他の時計を探して、その種類の専用のオープナーを手に入れたり、ペンチやレンチ等の工具でこじ開けてみようともした。そうした場当たりな努力をあざ笑うかのように、時計はびくとも動かなかった。まるで、時計自体が意思を持って、再び時を刻むことを拒んでいるかのようだった。僕は自分のその解釈に納得し、ようやくこの開かない時計へ理解を寄せることができた。ひたすらに続く時間の中を、もう歩きたくないという気持ちは、僕も同じだったからだ。僕が時計を修理しようとした動機は、ひとえに、直った時計をいつか出会ったあの人に託して、僕の代わりに、時計の以前の持ち主に返してもらうためだった。けれど、彼女はもうこの世にいなかった。これ以上、動かない針を動かそうとする必要は無くなったのだ。

 それに果たして、この時計を元の姿に戻して前の持ち主に返したところで、何になったというのだろう? 人がいつか死ぬというのならば、この時計を僕に託した人物は、僕よりも先に死んでいるかもしれない。僕が本当にしなければいけなかったのは、おそらく、この時計を自分がどうやって使っていくのかを考え、いつかまた、次の持ち主へ託す時がやって来るまで持ち続けていることだったのだ。僕は、この時計を自分が持つことに、怯えていた。宝物のように大切に扱いながらも、魅力あるものに必ず付きまとう危険や責任から、恐れ逃れようとしていたのだ。だから、時計は壊れた。

 針が止まったままの懐中時計を手にして、僕は家を出た。そしてから、タクシーを拾って、前から決めていた海沿いの町の近くまで運んでもらった。タクシーに乗って、深夜の街並みが横目に過ぎていくのを眺めながら、僕はこれまであったいろいろなことを思い出していた。それはまさに走馬灯のように、車窓を過ぎる電灯や街灯りの残光の中に、描きこまれ、映っていた。

 タクシーを降りて歩きはじめた頃には、深夜4時を回っていた。空も薄ぼんやりと明るくなってきている。今日がいいと、僕は思った。



 崖の高さは、だいたい20mほどだろう。目算ができないのでよく分からなかったが、少なくとも、僕が必要としているだけの高さはあった。

 美しい場所だった。海を臨んで、切り立った崖と、陸地の側を覆いつくす木々。空には薄く雲が張っていて、太陽の気配をにじませた暁闇の空は、静かで揺るぎなく、群青色のグラデーションに染まっている。陸風が徐々におさまり、凪へ近づきながら、かすかな風が海に向って立つ僕の背中を吹き抜けていた。

 僕は死を決意したのではなかった。僕の歩いていた先に、死はあったのだった。それはまさに、夜が朝に、陸風が海風に切り換わる瞬間のように、明確な境目などなく、ほとんど気づかぬほどのスピードでゆっくりと訪れるものだった。

 おそらく、言葉にしようとすれば、いくらでも原因や理由は挙げることができるだろう。けれど、そんなことに意味はないのだ。言葉による説明は、そこで起こっていることを、僕たちが自分たちの分かり易いように解釈し、呑み込むための作り物にすぎない。僕は言葉による説明を、今や必要としていなかった。全てはありのままの姿で、この体に感じられている。言葉はそれをいたずらに切り刻み、元とは違った別の図面へと変えてしまう。

 僕は、世界の流れの中の、一つの部分にすぎなかった。そして全ての物は、流れ流れて、いずれはどこかで全体の、無秩序な形を持たない混沌の中へ還っていくのだろう。

 僕の心は、平和だった。病と闘い、生きようともがくことに疲れ果て、さりとて自ら死ぬだけの力も持たず、少しずつ意識を薄れさせていく床の上の病人のように、何の希望も何の絶望も持たず、抗う力も推し進める力も持ってはいなかった。

 僕はそのとき、不思議なものを見た。

 これから歩いていこうとしていた崖の先に、人の姿を認めたのだ。さっきまではいなかったはずの、突然現れたその人影は、見間違うはずもない。僕自身であった。彼は、ゆっくりと僕の元へ歩いてきて、右手の掌をさし出した。僕は悟った。自分の手に持っていた時計を彼に渡した。すると確かに、止まっていたはずの時計の針が、時を刻んで動き出す音を聞いたのだった。

 彼は僕の肩を叩いて、どこかへと歩き去っていった。

 今のは一体なんだったんだろう。あれは、僕だった? いや、僕が僕だ。あれは幻だ。それとも僕の方こそが幻だったというのだろうか? ……いいや。幻であろうと、本物であろうと、どちらも同じことだ……。

 崖へ向かって、歩き出した。自分の足音が、世界と混ざり合って、一つのシーンになっているのを、僕は感じていた。

 崖の端で一旦立ち止まり、空を仰いだ。



 さようなら。……ただいま。



 体は宙を舞った。物理の法則に従って僕は落下し、岩の上に当たって、砕け散った。僕の死と共に、世界も消えて、なくなった。

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