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数日後、部屋の整理を終えた僕は、何箇所か、前々から決めていた所へと短い旅行に出かけた。最初に向ったのは京都だった。寺や神社などの、観光名所にも足を運んだが、京都で本当に行きたかったのはそういう場所ではなかった。僕はこれまで何人かの、京都を地元とする友達を持った。皆もう連絡を絶ってしまっていたけれども、僕は彼らに、深い印象と、深い関わりを持った。少なくとも僕にとっては、彼らは消そうと思っても消せない記憶となって、生き続けていた。僕はそのうちの一人から、自分の生きる意味を学んだ。また別の一人からは、川のように静かに流れ続ける愛と、平和に生きるべき魂がこの世にあることを学んだ。そして僕が、その魂に触れてはならない、出所の分からぬ、片輪の化物のような存在だったということも知った。けれど、化物には化物なりの、愛の示し方があったのだ。自分が傷つけてしまう者には、決して近づかないということだ。
京都に出かけたのは、彼らがどんな街で生まれてどんな空気の中で生きてきたのかを、知りたかったからだ。彼らの魂が育まれた土地を、自分の肌で感じてみたかった。できることならば、少しでも彼らのような心を身につけたいと、願ってもいた。
三日間の滞在のうち、一番長い時間を、僕は鴨川沿いを歩くのに費やした。京都駅を出てからしばらく行った所にある鴨川は、僕にとっての京都の印象の多くを凝縮した場所だった。下流から右手には大文字山が見え、遠くには盆地を取り囲む山稜が一望できた。川沿いの手前にはこの街の建物が軒を列ねて並び立ち、けれど川へと侵入することはせずに、一線を隔てて向こう側で街が広がっていた。陽が沈むと、建物や橋々はその輪郭だけを残して細部の構造を失い、刻々と流れ続ける大きな川と、点々と灯っている街灯、夜闇に沈んで逆に一段と輝きを増す街並みと、その全てを包んで沈黙する空や山々が見えた。
ここは神が死に、神に見捨てられた街だった。そして人々は、神の足跡と亡骸を祀り、それらを、誇りと恥としながら、生き続けていた。
京都から帰ってきた僕は、例の時計の止まった針を動かそうと、ようやく真剣に考え出した。この期に及んで、自分の真剣にできることが時計をいじることだけかと思うと、みじめであり、しかし妙に得心のいくところもあった。目の前の時計には自分の全てが秘められているという気がした。
昔から、僕は時計が好きだった。実物の時計そのものというよりは“時計”というモチーフが好きだったのだ。この懐中時計のように掌で収まるような小さな機械の中に、時間という、この世の真理が映し出されている。時が全てを解決し、時が全てを教えるこの世界を、この小さい機械は体現している。僕はそう思った。そして、その時計を掌に収めることで、深い安心を覚えた。僕の頭の中にだけある幻の世界は、時計によって秩序を保っていたのだ。
時計の構造について、ネットや本を使って調べはじめた。時計の裏蓋には、ねじ込み式とはめ込み式という二つの種類があって、ねじ込み式は専門の型を使って回転させることによって蓋を開け閉めし、はめ込み式は、開けるときにはテコのような道具を使って開き、閉めるときには蓋をはめ込めばいいのだが、この懐中時計は、そのどちらでもなかった。まるでパズルのように、小さな長方形のパーツが中央に向いて幾つも埋めこまれ、放射状に広がっていた。それぞれのパーツはランダムに配置されていて、規則性も見当たらない。そして、パーツは押せば奥へと埋まりこみ、しかし一つのパーツを押すと別のパーツが浮き出してくるといった風に、どういう仕組みでか連動していた。
僕はこの裏蓋の仕組みに、いつか小さい頃に旅行先で見た、木組みのパズルのことを思い出した。おそらくこれはそのパズルと似たようなものなのだ。パーツを押す順序、位置、どれかしらに正解があって、蓋が開くようにできている。だが、このパズルは内部の構造が外から見ておよそ窺い知ることができなかった。パーツの配置がランダムなために、配置から単純に解法の見当をつけることもできなかった。あるいはもしかすると、ランダムな配置に見えているだけで、実はここには数学的な秩序があるのかもしれない。そう思うくらいに、一つ一つの部品が描くこの放射は不思議と僕の心を惹いた。裏蓋のパズルがスイッチであるように見せかけて別の開閉方法が隠されているのではないかとも疑ったが、見たところそうではなさそうだった。このパズルが解き明かされなければ、時計は、まず修理へとりかかる所までも辿り着かないのだった。あるいは、これらの仕掛けは蓋を開けようとする者を嘲弄するために作られた飾りで、開ける方法など元から存在しないのか―――しかしそんな事は、例えこの蓋が開かないものだとしても、考えるだけ無駄だった。
それから、僕はある友達に、電話をかけた。大学で一度会ったきりの女の行方を、彼が知ってはいないかと思ったからだった。大学で顔の広かった彼だったが、その人物のことは見たこともなければ名前も知らないとのことだった。僕はふと、恐怖のにじり寄ってくるような感じを覚えた。僕は幼い頃からよく、他人が誰も知らないと言う“誰か”のことを口にして、周囲にそんな人は存在していないと諭されることがあった。霊や何かの類いではないのは確かだった。僕が見る“誰か”は、現実の世界と何の所縁も持たず、その一方で、どうも僕の心の中の幻の世界とはひどく近しいものを持っていたのだ。彼らは、おそらく僕にだけ見えている、幻の人間たちだった。僕は、自分が彼らを現実と区別することができていないと気付く時が、何よりも恐ろしかった。それは、僕が現実だと思っているものの全てが揺さぶられる瞬間だった。夢と現実の区別がつかなくなり、唯一確かに掴んでいるはずの物が、ふざけたお芝居に変わる瞬間だった。
僕には確証を得るすべはなかった。その女の行方のことはさて置いて、僕は友人にもう一つの要件を切り出した。部屋を整理していた時、ラックの中から、昔その友人に貸してもらったCDを数枚見つけた。それを返すついでに、今度暇な時があったら一度会えないかと訊ねてみたのだ。友人は快諾してくれた。そして、幾度か通ったことのある居酒屋で会おうという約束をして、電話を切った。
僕は寝転がって、ぼんやりと天井を見上げて考え事を始めた。大学時代の友人との付き合いのこと、そして一度会ったきりのその人のこと等を思い出そうと試みた。どれもがはっきりと明瞭な実感を伴っていて、それでいてバラバラに散らばって、混乱していた。関係のない幾つもの出来事が互いに連続して、複数の意味が浮かび上がり、小さく言葉にまとめたり、代表的なイメージで統一することを不可能にしていた。それは、時の経過によって細かい形へ風化されながら、塵に還る時を待って宙を漂っているかのようだった。
物事には、流れがあると、僕は最近ようやく気付きだした。年月を貫いて少しずつ変化していくその流れを、変えようと足掻いたこともあった。けれどその度に、自分の必死の抵抗は、巨大な波形を描く幾何の途上に、小さなさざ波を起こしているにすぎないのだということを思い知らされるのだった。空元気はその後に来る憂鬱を作り出すだけであり、大きな決意も自分の無力を知るための準備にすぎない。結局僕にできる精一杯のこととは、自分の乗っている波がどういう形をしていようと、それを受け容れるということだけだった。せり上がろうとする波にあらがえば、水に飲まれておぼれてしまう。沈み込む波を拒絶すれば、空中に投げ出される。……僕は、その波を無視することをやめたのだ。それが世界の原則の全てではない。けれど確かに波はあって、僕のちっぽけな思考や決意を打ち砕くべく存在しているということを、認めたのだ。
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