Peaceful Moment
Hoshimi Akari 星廻 蒼灯
*
六畳の部屋には、いくつかの家財と、いくつかの雑多な道具たちが、命を使い果たしたみたいに静かに寝転がっていた。部屋に二つある窓は開け放たれて、夕方にさしかかった東京の普段の街が、ようやく訪れようとしている一日の終わりを待って、オレンジの夕陽につかりながらぼんやりと目を細めているのが、見えた。
僕は息を一つ吐いて、死に体で横たわるこの部屋の構成員たちと息を合わせた。どれもこれも、僕が運び込み、使い古した、仲間のようなものだった。その仲間たちは、僕と同じ歩幅でここまで歩き続け、命をほとんど燃料に使いきってしまい、地面に倒れこんで、今は微かな呼吸を音もなしに続けているだけだった。
僕は部屋の隅で壁に背をもたれて座り、何も考えずに呼吸をだけ繰り返した。そうして数分が経った。短い放心でほんの少しの力を蓄えた僕は、床に置いていた携帯電話を右手で掴み、膝の間まで持ち上げて、あらかじめ決めていた番号に電話をかけた。
電話はすぐには繋がらなかった。一度かけたけれども応答がないまま留守電へ変わり、少し時間を置いてから二度目をかけたけれど、今度も繋がらなかった。
僕は諦めて、また数時間たってからかけ直そうと思った。コールをしている間、応答のない画面を見ている時にも、心臓が早鐘を打って、不安と緊張が体を駆け巡っていた。
散らかった部屋を整頓しはじめて、陽も沈み外が暗くなってきた頃だった。携帯電話が着信のバイブを鳴らした。画面には、さっき電話をかけた相手の名前が表示されていた。緊張で足元から感覚が引いていく。冷たくあしらわれるだけじゃないかと思いがよぎったが、液晶を触って通話を開いた。
「もしもし?」
携帯電話のスピーカーから相手の声が聞こえた。何も変わっていない。一年前とも、二年前とも……。
「ご無沙汰、しています」
「どうしたの? びっくりしたよ。仕事終わってさあ帰ろーって思って携帯見たらA君から電話来てるんだもん。元気にしてる?」
「はい。元気です」
「嘘。元気な声じゃないよ」
僕は笑いをこぼした。何もかも、やっぱり同じだと思いながら。僕と先輩のやり取りは、昔もこんな風で変わらなかった。
「先輩、今度、会えませんか?」
「おお。いいよ」
「ありがとうございます。すみません、いきなりお願いして」
「ううん。どうしよう、いつがいいのかな」
「僕はいつでもいいんです。先輩の大丈夫な時だったら」
来週の週末、昔通っていた大学の近くの駅で待ち合わせるということで、話はまとまった。
電話を切った後で、僕はまたいつものように、どこに向かうべくもない虚脱感を覚えた。先輩は僕がまがりなりにも心を開いて話せる相手の数少ないうちの一人だった。それでも、先輩との間には無視することのできない大きな隔たりが見えていて、僕はその落差のようなものを、自分の住まう谷の底から這い上がることでどうにか埋めようとするのだった。そして同時に先輩もまた、谷へ向けて身を乗り出して、僕へ声が届くように徒労を払っているのを、僕は否応なく感じさせられた。
約束の場所と時間とを手帳のカレンダーに書きこんで、部屋の整理を再び始めた。物が雑然と転がっているこの部屋は、所々に島が出来上がり、そこへ独特の秩序でもって様々な物が積み上がっていた。掃除自体は簡単だった。パッと見で綺麗に見えるくらいのところまではすぐ辿り着いた。が、問題は一つ一つの島が、どれも得体の知れない成り立ちをしているところだった。勉強道具があったと思ったらその下には雑誌が挟まれ、更に潜ると次は絵の描き散らかされたA4の紙が十数枚顔をのぞかせる。絵は一枚一枚から、様々な狂気と子供じみた甘えとがにじみ出ていた。僕はそれらの絵を眺め、昔の自分が絵で発散させようとしていた形にならない何かを今一度吸い取りながら、新しい島に仕分けていくのだった。
作業は淡々と進んでいった。陽が完全に沈んで、電灯の点けられた部屋で、機械仕掛けの人形が仕事をこなすべく働いているように見えた。
夜も8時を過ぎてそろそろ夕食にしようと思っていた時に、僕は机の中で一つの時計を見つけた。
それは、数年前に壊れて止まってしまった懐中時計だった。僕は昔この時計に深く心をとらわれていた。どこの国のものかも分からないその時計に、僕は何らかの意味と、有無を言わせないノスタルジーのようなものを感じた。鎖でつながれて首に掛けられるようになっていて、手の込んだ時計の作りを見るに、安物には思えなかった。僕は、自分がいつどこでこの時計を手に入れたのか、失念してしまっていた。数年前に壊れて止まったのだから、それより前から持っていたはずだ。大学に入ってからではない。高校の時、中学の時と、順々に過去の記憶を探っていったが、思いだせない。誰かから貰ったものだということだけが、ぼんやりとした光景と一緒に頭に浮かんだが、それが誰なのか、思いだせなかった。
時計の針が動かなくなってしまった頃、僕はいくつかの時計屋や修理屋をあたった。時計の仕組みや構造が分からず、自分では裏蓋を外して中身を開くことができなかった。持ち込んだ先の店員は、皆一様に、これを直すのは難しいという風なことを言って、渋い顔で修理を断った。メーカーに直接持っていったほうがいいだろうとどの店員も提案してくるのだけれども、この時計がどこで作られたものなのかが分からなかった。時計には、銘柄や品番の一つも打たれていなかったのだ。どうしても修理できないだろうかと僕も粘ったが、最後には、無理に分解すると壊れるかもしれないけど、それでもいいなら預かりましょうと言われ、諦めて針が止まったままの時計を持ち帰ったのだった。
懐中時計を机の上に置いて、夕食をとることにした。部屋の整理で夢中になっていたので気にならなかったけれど、腹もすいていた。冷蔵庫の中の物で何か作ることもできそうだったけれど、外を出歩きたいと思い、近くのスーパーまで買い物に行くことにした。
暗くなった夜の道は、季節が秋にさしかかっているために、湿気もなく、微風が吹いて、過ごしやすかった。ここの夜の住宅街は、人の姿がほとんどない。息詰まるようなことが無かった。人には、周りに他人が沢山いないと落ち着かないタイプの人達と、一人でも誰かが近くにいると息が詰まってしまうタイプの人達がいるけれども、僕は後者の人間だった。人影の見当たらない開けた空間とその景色は、僕の心の中の幻の世界のイメージによく合致しているのだ。そこには街灯で静かに照らされた住居や街路樹だけがあって、中で営まれているはずの無数の平凡な生活の痕跡が覗き見える。声が聞こえてくることはあっても、姿は見えない。あるいは、決してこちらに干渉することのない紙人形のような姿で、人々は街を歩き回っている。僕はそこでは、存在していないのだ。自分が存在するはずのない世界の日常を、誰に見られることもなく、触れられることもなく、ただじっと眺めている。そしてそんな幻の世界を、現実の風景と時折重ね合わせるのだった。
買い物をすませた帰りの道で、ちょっとしたトラブルに遭った。イヤホンを耳に挿して音楽を聴きながら歩いていたせいで、曲がり角から顔を出すまで、それに気づかなかったのだ。暗い路地の中程の辺り、道路の端で、二人の男が喧嘩をしているのにはち会った。大学生くらいの年の二人で、互いに相手をつかんで取っ組み合いをしていた。人間はこういう直接の争いをするときに、動物に戻るのだと僕は思った。二人は、敵に一瞬の隙も与えようとせず、逆に隙を見つけると電気的な素早さで敵へ殴りかかろうとする。それは二匹の犬がつかみ合いをするのに似ているようで、しかし純粋な野生と言うには欠けていて、打算や、自分を獣と同化しまいとする欺瞞も混じって溶けていた。
背を向けて引き返すのも面倒だったので、喧嘩をしている二人の反対側を歩いてそのまま通り過ぎようとした。すると二人の男の取っ組み合いは止んで、代わりに今度は言い争いが始まった。それは一人の女を巡ったいざこざで、二人の男はその女と、各々自分のプライドを守るためにもがいていたのだった。二人の闘いは、女とプライドという二つの目的が、互いの足をひっぱりながら延々と続けられていた。僕はやがてその二人の声の届く距離から外れてしまって、争いの行く末は分からずじまいとなった。
家に帰った僕は、簡単な夕食を作って、狭い部屋の真ん中にあるテーブルで食事をとった。
そうしてから、机の上に置いた懐中時計をもう一度手に取った。綺麗な時計だ。しばらくの間時計を細部まで眺めて、これを僕に譲り渡した人物が誰だったのか、思いだそうと試みた。どうして忘れてしまったんだろう。この時計を手に入れた瞬間は、深く記憶に刻まれていてもおかしくないはずだった。
僕は、元の持ち主を思い出す代わりに、全く別の、ある人のことを思い出した。それは、僕がこの時計を自分以外の誰かの目にさらした、唯一の他人だった。大学で会った、一日出会って話したきりの同じ年の大学生で、その人は、この時計に彫られているのとよく似た模様が彫られた、“箱”を持っていた。興味を持って、僕は彼女に話しかけ、彼女が持っていた箱を見せてもらい、まだ針が動いていたこの時計を、その目に確かめた。
あの人ともう一度会いたいと、僕は思った。この時計を自分の手で直し、どこかにいる彼女を見つけ出して、渡そう。彼女は、あの箱や、この時計の持ち主と出会えるかもしれない。そうしたら、この時計もきっと、納まるべき場所に納まることだろう。
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