掃除

 日曜日の昼。

 肌寒くなってきた自宅の廊下を、湯のみ片手に歩いていた。トカゲは部屋に置いてきた。早く戻らねば。


「あれ、葉月。そんなとこで寒くないのか?」


 縁側に姿勢よく腰掛けて、手元を見つめていた葉月に声をかける。部屋の中に入ればいいのに。


「ここは日が当たるから暖かいわ」


「へー」


 何故か手元を見つめたまま答えた葉月の横に腰掛ける。マグカップを両手で持って着いてきていた監視の人は、さっと近くの部屋に入った。


「あ、葉月ココア飲む?」


 湯のみに入ったココアを見せる。妹に入れるついでに自分の分も入れてみたは良いものの、面倒だからその辺の湯のみに入れたのだ。葉月が飲むならちゃんとマグカップに入れればよかった。


「.......もらうわ」


 湯のみを受け取った葉月は、無表情のままココアに口をつけた。確かに縁側は日差しがぽかぽかしていて、何となく眠くなる。課題のレポート終わってないけど、昼寝しようかな。


「あなたは飲まないの?」


「1口飲んだら満足した」


 あと湯のみにココアという組み合わせに脳みそが混乱して純粋にココアを楽しめなかった。お茶にすればよかった。


「ねえ、和臣」


「ん?」


 葉月がじっ、と真剣な表情で俺を見つめる。湯のみを置いて、左手に何か細い棒を握りしめて。空気が張り詰めた。

 まさか、暗殺か。闇討ちか。日頃の恨みが爆発か。


「お、お助けを.......」


「昨日、学校帰りに薬局に寄ったの」


「毒殺.......!?」


 最近術勝負で大人気なく負かしているからだろうか。

 でも手加減したら殺す(物理)みたいな雰囲気出してくるじゃないですか。そろそろ実力的にも余裕がないのに、命の危機を感じたらそりゃやりますよ和臣くんだって。


「薬局で、おまけを貰ったのよ」


「ひぃっ」


 鋭い動きでこちらに向けられた葉月の左手。握りしめられた何かが、ビタっと俺の目の前で止まった。

 こころなしか期待に満ちた目をしている葉月が持っていたのは、先端に返しがついた竹製の、棒のような武器だった。反対側の端には、白くふわふわした綿状の何かがつけられている。恐らく触れたら爆発する綿なんだろう。これを耳に突っ込んで脳みそを破壊する凶悪な兵器に違いない。


「耳かき、させてちょうだい」


「.......」


 ぽんぽん、と葉月が自分の太ももを叩く。


 耳かき。

 それ自体は嫌いじゃない。だが、葉月は力加減が下手だ。耳掃除なんて細かな作業、俺の鼓膜に割と深めの穴が開く以外の未来はないだろう。


 しかし、しかしだ。

 膝枕だ。

 合法的に膝枕してもらえる。あの、この世の幸せ全てを詰め込んだような感触の、葉月の膝枕を、だ。


 俺の思考は、かつてないほど高速に回転し。


「.......お願いします!」


 自分の鼓膜を捨てることを選んだ。

 仕方あるまい。だって膝枕だぞ。いつだって、何か大きなものを得る時には代償が必要なのだ。むしろ鼓膜で済むなら安いもんだ。


「まかせてちょうだい」


 何故か覚悟を決めたような顔をした葉月に声をかける前に、ぐいっと頭を葉月の腿に押し付けられた。

 あ、もういい。あの棒を脳みそまで突っ込まれようと世界を愛していける自信しかない。日差しも暖かいし、幸せが過ぎる。


「.......私」


 何故か耳たぶを掴まれる。そのままぐりぐりと回された。なんだこれ。若干痛いし。


「.......人の耳かきをするの、初めてなの」


 さよなら世界。


「どこまで突っ込んでいいのかしら? 良く見えないし.......痛かったら言ってちょうだい」


「タスケテ.......」


「まだ何もやってないわ」


 もう膝枕にだけ集中することにした。右耳は諦める。

 頭の神経に集中した瞬間、いきなりガッと頭を掴まれた。握りつぶされそうなほど力強く、頭が1ミリも動かないよう固定される。それから、何故か大きく息を吸い込む音が聞こえた。葉月の腕が耳かきとともに高く上がり、やけにくっきりとした影が落ちた。

 無意識で逃げ出そうとした体を、信じられない力で押さえつけられる。手で耳を覆って叫んだ。


「葉月さん!? 落ち着いて落ち着いてストップ! そんな振りかぶらないで! 優しく! ゆっくり! まず耳の入り口から!」


「イメージは出来てるのよ」

 

 心臓が異常な速度で動いている。体が本能的に生命の危機を感じているのだ。もう膝枕の感覚などない。助けてくれ。まだ死にたくない、死にたくないんだ!


「助けてくれええええっ!!」


「動かないでちょうだい。.......手元が狂うわ」


「うわああああっ!!」


 べり、と耳を塞いでいた手を剥がされる。あんなに幸せだったはずの膝枕が、今では拷問の現場に変わっていた。竹の棒で耳から脳みそ引きずり出される。助けて。


「あー! 和兄耳かきしてもらってるー!」


 救世主だ。救世主が現れた。

 空のマグカップを持った妹が、小走りで寄ってきた。すっと後ろの障子が開いて、監視の人が顔を覗かせる。助かった。


「清香ちゃんは、耳かきが好きなの?」


「うん! .......あっ、でももう自分でできるんだよ? それに、やりすぎるとお姉ちゃんが怒るから.......」


 そう言えば、妹は異常なほど耳かきが好きだった。というか姉の耳かきが気持ち良すぎるのだ。俺も1回ハマった。

 だが、そんなことより。この流れはまずい。


「清香ちゃんも、やりましょうか?」


 やる気だ。葉月は、俺の妹を耳かき殺るつもりだ。


「や、やめてくれ! 可愛い妹なんだ!!」


 飛び起きて妹を後ろに隠した。何故か監視の人も隠れた。


「和兄何言ってるの? やめてよ、私葉月お姉ちゃんに耳かきしてもら」


「やめろおおおおお!!」


 葉月の手から耳かき拷問器具を取り上げ、妹の頭を足に乗せた。


「和兄! やめてよ! 和兄じゃなくて葉月お姉ちゃんがいい!」


「兄ちゃんに任せろおおお!」


 妹も葉月も監視の人も、全員俺が耳掃除した。


 妹は、葉月姉ちゃんが良かった、和兄のバカ! と言いながら足音を鳴らして部屋に戻り、監視の人は妙に静かになり後ろの部屋に消え、葉月は耳を赤くしながら冷えた湯のみココアを啜っていた。


「.......私、して欲しかったんじゃないわ。やってみたかったの」


「耳かきはそんな軽い感じでやるもんじゃない」


 人の脳みそをいじくる拷問だぞ。


「結局あなただけやってないじゃない」


「.......俺、実は先祖代々の言いつけで耳かきだけはするなってキツく言われてるんだ」


「おバカね」


 ふぅ、と。耳に息を吹きかけられた。その一点に向けて、血液の流れが変わる。


「これであなたも耳掃除できたわね」


 そう言いつつ自分の耳も染めて、もごもごと言いにくそうに口ごもっていた葉月は。


「.......今度。また、耳かき.......してちょうだい」


 とりあえず、その晩は姉に耳かきの極意を教わった。

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