祖父の心孫知らず(上)

「はぁっ.......はぁっ.......!」


 息が上がる。足が鉛のように重い。よりによって理系科目全ての教科書を入れた鞄が恨めしかった。

 日が落ちるのが早い冬。もう街灯が灯った人気のない道を。


『キキキ。殺ソ?』


「黙れ雑魚蜘蛛おおおおおお!!」


 土蜘蛛なんかに追われながら。


『和臣、なんで倒さない? アレ和臣より弱いぞ』


「そうだねえええええ!! 弱くて笑っちゃうよねええええ!!」


『くわ?』


 キョトンとした河童を腕に抱きながら、走っていた。


 事の始まりは約1時間前に遡る。


 俺は正月から始めた1日12時間勉強というふざけた日常の集大成、センター試験2日目の帰り道を俯いて歩いていた。何となく家に帰りずらくて、やっぱり解答速報が出るまで駅前のコーヒーショップにでも居ようと、来た道を帰ろうとした時。


『和臣』


「あっ! 河童、河童じゃないか! どうしたんだ川から出て!」


 俺を見上げる緑でぺとっとした可愛らしい河童を抱きしめようとして、思い切り暴れられ顔面を蹴られ逃げられた。可愛い。ぺとってしてた。可愛い。トカゲにも会わせてやりたかったな.......あ、やばい泣ける。


『和臣、助けて』


「ん? どうした? また自転車でも川に落ちてたか?」


『くわ』


 こてんと首を倒しながら、緑の水かきがついた手がそっと俺のコートの裾を掴む。可愛い。寒中水泳? 余裕すぎるな。たとえ川が凍っていようと自転車ぐらい引き上げてやるぜ。


「よし、じゃあ川行こうぜ!」


『川は孝臣が来てるぞ。本当は静香が良かったのに』


「え? 兄貴?」


『和臣、助けて』


「.......え?」


 河童が、ぴとっと俺の足の後ろに隠れる。可愛い。くちばし触っていいかな。可愛い。

 そして、目の前に。


『キキキ』


 沢山の赤い目玉をこちらに向けて。ガサガサと8本の足を動かしてこちらに体の正面を向けた。


『.......くわ』


 土蜘蛛がいた。

 そいつは、俺の後ろに隠れた河童を見据えて。人間のような表情はないにもかかわらず、にたぁっと嫌な笑顔になったのは分かった。


『キキ、河童、タべよ?』


 そんな、言葉を聞いて。


「てめえええええ!! ふざっけんな! 言っていいことと悪いことがあんだよ!! お前ら土蜘蛛根絶やしにしてやるぞ!! 塵も残さねぇ!!」


 今年1番キレた。許さねぇからな雑魚蜘蛛め。

 そして土蜘蛛と俺が、お互い1歩前に踏み出した時。


「あっっ!!」


 俺は、全力で足にしがみつく河童を腕に抱いて、突っ込んでくる土蜘蛛を避けるように横に転がった。

 まずい。これは、まずい。


『くわ?』


『キキキ! 河童うマそ! タベょ!』


「そうだった!! そうだった俺!!」


 河童を抱えたまま立ち上がり、全力で逃げる。ぺたぺたと腕の中で揺れる河童が可愛すぎて危うく立ち止まってもっと抱きしめてしまう所だったが、微かに残った理性が俺の足を動かした。できるだけ人通りの少ない、細い路地を選んで走りながら。


「俺、免停中だったあああああああ!!」




 そうして今に至る。


 もうずっと全力疾走を続けていて、そろそろ俺も限界に近い。これはまずい。なぜなら、俺は今全ての術の使用を禁止されている。言ってしまえば無力。ただ妖怪が見えるだけの男子高校生だ。しかも最近運動不足の。


『.......和臣、もう川に帰りたい』


「ごめんねえええ!! 兄貴来るまで待ってえぇぇ!!」


『.......くわ』


 どんっと、俺のつま先すぐ横の地面が抉れた。鋼のように硬い糸の塊が、土蜘蛛の口から吐き出されていた。


 これは、そろそろ本気でまずい。


 土蜘蛛の危険度はB。一般的な術者5人での対処が推奨されるレベル。今の状況を冷静に見て。俺は、あと10分も持たず殺される。河童を守りきれずに。トカゲも助けられないまま。センター試験の自己採点もしないまま。.......そんなの。


「.......河童」


『くわ』


「ちょっと手伝ってよ。害虫駆除は手間だけはかかるからな!」


『きゅうり』


「あとで買ってくる!」


 河童に荷物を預けて。全力で伸ばした腕と走ってきたエネルギーを使って、目の前のブロック塀の上へと体を引き上げる。多少よろけながらも塀の上に立ち上がって。


『キキキ! コろそ殺ソこロソ! おマぇかラ殺そ』


「はいはいかもーん!!」


 飛んできた、鋼のような糸の塊を。


「よっ」


 横に避ける。先程俺の足があった場所に突き刺さった糸の塊を辿って、信じられないスピードで土蜘蛛がこちらへやって来る。

 それを。


『キキキ! バか馬カ馬鹿! オ前バカ!』


「バカじゃねぇ!! そんなの採点しないと分からないだろ!! 信じてるよ俺は!!」


 俺も土蜘蛛の張った糸の上に足を踏み出して。2歩目を踏み出す前に、糸を辿って来た土蜘蛛が目の前に。


『殺そコロそ』


「バーカ!!」


 右足の甲を糸に引っ掛けて。糸を支えに、ぐりんと思い切り頭を下に身体を回す。思ったより糸の高さがなくて頭が地面スレスレになったのにはドキッとしたが、なんとか俺は逆さまになって突っ込んで来た土蜘蛛を避けた。


『キキキ』


「っ!」


 地面に逆立ちのように手をついて、足を糸から離して立ち上がる。そのまま全力疾走で逃亡。足の甲は当然のように靴ごと糸ですっぱり切れたが、そんなことより体力の限界で走れない。くそ、もっと勉強中に鍛えておけばよかった。


『弱イよワいよゎイ!』


「弱くねぇぇぇぇぇ!! そこそこ頑張ってるわああああ!!!」


 追いつかれた。もう1メートルも距離がない。背中にぞわりとした感覚。

 それを、振り払って。

 思い切り、土蜘蛛の方を、振り返る。


『キキ、キキキ』


「.......」


 振り返った瞬間、土蜘蛛が跳ねた。人間にはない質量と硬さを持って、頭上から俺を押し潰そうと降ってくる。


「河童ああああ!! 結んだなああああ!?」


『くわ』


 少し遠く。右手にある街路樹の後ろから。俺の鞄を踏み台にした河童が、ぴょこっと顔を覗かせた。可愛い。


『キキキ』


 土蜘蛛の8本の足のうち1本が、俺の後頭部の髪の先を掠めた。

 俺は、スライディングに近い形で。土蜘蛛の左下を、腕を上げてくぐり抜ける。

 手に、河童に端を腰ぐらいの高さに結んでもらった、担任にお守りだと渡された、ミシン糸を持ちながら。


『キキキ』


 普通の糸では妖怪は倒せない。術も札も使えない。なら。

 手に持った糸に霊力を通す。ただのミシン糸が、ずぶっと土蜘蛛の体に入り込む。ミシン糸の強度の限界と、硬度の限界を、俺の霊力でカバーする。

 突っ込んでくる土蜘蛛の下で交差しながら、ミシン糸が土蜘蛛の銅の半分ほど入り込んだところで。限界が来た。


「いっ!!」


 素手でミシン糸を握っていた手から、ぶちぶちと肉が切れる音がする。土蜘蛛の胴を上下に刻む前に、手のひらにミシン糸を巻いた俺の手が真っ二つになりそうだった。ご先祖さま、マジでウチは昔本物の糸でやってたんですか。めちゃくちゃ痛いんですけど。自分の糸じゃないとめちゃくちゃやりにくいんですけど。手袋と指環したら大丈夫なんですかねこれ。


『.......殺す』


 土蜘蛛の銅4分の3程に入ってそのまま止まってしまった糸に、変わらず霊力を注ぎながら。


「くそっ!」


 立ち上がって、拳を握って腰をひねった。せめて、河童が逃げる時間はかせごうと。拳を、ふり抜く寸前。


「【滅糸の三めっしのさん至羅唄糸しらべいと】」


「お?」


 土蜘蛛を糸が貫いて、その後飛んできた札がボロボロの土蜘蛛を消し飛ばす。河童が俺の鞄を引きずりながらぺたぺた走ってきた。そして、俺をスルーして。


『ありがと』


「いいのよ。それに、お礼を言うなら私じゃないわ」


『くわ』


 コートを着た制服姿の葉月は、ペットボトルの水を河童にかけた後、河童を俺の鞄ごと抱き上げて。

 隣にいた男へ、向き直る。


正臣まさおみ、ありがと』


 正臣と呼ばれた、灰色の髪を短く切った厳しい顔の男。どこか口元が父に似たその男は。


「かまわん。私は馬鹿な孫の尻拭いをしたまでだ」


 俺は、その言葉を聞き終わる前に。

 震える足を無視して、とりあえず全力で走って逃げた。


 3歩も走らないうちに葉月に捕まった。

 逃がして欲しかった。

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