学年一の美少女は、夜の方が凄かった

藍依青糸

第1話 秘密

 桜はもう散っていたのを覚えている。

 まさに、春が終わろうとしていた日のことだった。


 深夜の公園で1人妖怪と戦う女子高生、なんてものを見てしまったあの夜から、俺の普通の日常が変わってしまったのだ。


 ◇◆◇◆



 同じ敷地内に中等部と高等部を抱えた中高一貫校の中で、大した感慨も新鮮さもなく新高校一年生となった俺、七条 和臣しちじょう かずおみは、抑揚のない授業にあくびを噛み殺していた。


 彼女が欲しい。


 少ないながらも高等部からの新入生が混じった教室を見て浮かんだのは、切実かつ当然の願いだった。高校生になれば自動的に彼女ができるものと思っていたが、今のところそんな気配は微塵もない。なぜなら女子の友達すら1人もいないからだ。現実と女子は無情である。

 退屈だった授業を終え、席を立った放課後。 


「和臣ー! なにさっさと帰ろうとしてんだよー! 高瀬ん家行こうぜー!」


「帰宅部エースの俺の下校を妨げるとは……田中、流罪」


 騒がしい教室の中でも一際騒がしい男が、俺の机の前に立ち塞がっている。中等部の頃から変わらないこの騒音。どけ田中、俺は帰ってテレビを見るのに忙しいんだ。


「アイツ自分の部屋にテレビ買ったんだってよ! ゲームやろうぜー!」


「え、テレビ?」


 自分専用のテレビなど羨ましい限りだ。俺も妹とチャンネル争いをせず思う存分テレビが見たい。毎度争いに負けるので録画が溜まっている。


「あ! 山田! 一緒に高瀬ん家行こうぜー! 部活休みだろー?」


「お前ら……部活が休みなのは今が試験期間だからだぞ?」


「テストは全員で一緒に失敗しようぜ! な、和臣!」



 俺の毎日は、こんな感じだった。

 仲の良い友達と騒いで遊んで、勉強はそこそこで。

 漫画みたいにかわいい彼女はできないけど、それなりに楽しく過ごしていた。



 普通に、楽しく、過ごしていたのだ。



 結局、ゲームを終え帰路についたのは8時過ぎだった。

 中学の頃は広いと感じていたあの部屋も、最近では少し狭く感じるのは俺たちが大きくなったからなのだろう。田中など最近目に見えて背が伸びだした。俺も多少は伸びているが、周りと比べると誤差程度だ。俺のことをチビと言った奴らには大器晩成という言葉を教えてやる。


 真っ暗に静まりかえった自宅に帰ってから、ノートと教科書を開いてぼんやりと机に向かった。一応テスト期間なので、ポーズくらいはしておかないと姉に怒られるのだ。

 気がつくとノートを枕に寝ていて、時計は午前1時を指していた。


「腹へった……」


 寝ている家族を起こさないよう、きしきしと軋む暗い廊下を進み、1人玄関でサンダルをひっかけて近所のコンビニへ向かった。

 適当なおにぎりとカップ麺を買って帰る途中。


「ん?」


 何とはなしに近くの公園へ目をやると、ぼんやりと青白い光が見えた。その光は、ゆらゆらと揺れ時折ふっと消える瞬間があった。

 明らかに街灯の灯りでは無い光に興味が湧いて、軽い気持ちで公園を覗いた。そう。ただ、それだけ。それだけのつもりだったのに。


 見上げた先にあったのは、黒く真っ直ぐな髪、小さな顔に載った鼻筋の通った小さな鼻と、形の良い瞳。すらりと白く長い手足に、制服の上からでも分かる腰の細さ。なびくスカートはスローモーションのように。


 学年一の美少女と噂される、俺のクラスメイト。水瀬葉月みなせはづきは、空中で身を捻りくるりと地面に着地した。そして、すぐさま手に持った謎の札を構える。


 水瀬の向かいには、この世のものではありえない、黒々と蠢く大きな蜘蛛のような、朽ちた毛糸の成れの果てのような、化け物が、いた。


 水瀬はその化け物から目を離さず、たっと軽い身のこなしで後ろへ下がり距離をとった。次の瞬間には、あの白い細腕からは想像もつかないような速さと鋭さで、謎の札を化け物に向かって投げつける。


 『ギギギギギギギギ』


 嫌に耳に残る掠れた音を立てて、蜘蛛もどきの黒い化け物は消えていった。



 呆然とその光景を見ていたら、バキ、と自分の足元から枝を折った音がした。まずいと思ったときには既に遅く、水瀬がぐりんと首をまわしてこちらを振り向く。表情がない中見開かれたガラス玉のような目。その目と目が合う前、桃色の小さな唇が開く前に。


 全力で背を向けた俺は、死ぬ気で走って家まで逃げた。


 そしてその日はそのまま寝た。






 翌朝、居間に行けば妹に汗臭いと怒られた。いつもはもう少し落ち込むが、今日はあまり気にならなかった。深夜に見たアレが、最後に見たあの目が、どうしても忘れられない。どうか、どうかリアルな夢であってくれ。


「和臣、急いでご飯食べてお風呂入りな。清香きよかも言ってたけど、あんた汗臭い」


 こちらに目もくれない姉にまで心を抉られたので、風呂には入った。

 熱いシャワーを浴びても、なんだか心は宙に浮いたままだった。


 半ば習慣的に学校へ行って自分の席に座って、少し離れた空っぽの席を見る。まだ、水瀬は学校へ来ていなかった。

 水瀬が学校へ来ない。それが、夜に見てしまったあの非現実的な出来事を妙にリアルに思わせて、ざわりと心が波打った。


「よう和臣ー! 今日は早……お? なんだなんだ朝から! お前もやっぱり水瀬が気になるんじゃんか!」


 朝っぱらから、繊細で複雑な俺の心中などお構いなしに騒がしく話しかけてくる田中。思わず目元を抑え俯いた。これだからバk……、失礼、これだから能天気なやつは。


「……そんなんじゃねえよ」


「やっぱり水瀬だよなー! 顔めっちゃかわいいし、スタイル最高だし! あんなのこんな田舎にはいねぇよ! マジうちの高校に入学してくれて良かったぜー!」


 田中のバカめちゃくちゃイラつ……失礼、奴の能天気さがこれほどまでにイラつくとは。


「……うっさい。静かにしろ」


「なーんだよノリ悪いなー。あ、そうだ! 古典のテスト範囲教えてくれ!」


「5ページから15ページまで」


 さっさと静かにして欲しかったので、適当なページを言った。本当の試験範囲は知らない。


「サンキュー!」


 田中が笑顔で席へ帰って行くと同時に、担任教師が教室に入ってくる。その後もいつも通り淡々と学校は進み、6時間目が終わった。



 結局水瀬は今日、学校に来なかった。




「和臣ー! 今日も高瀬ん家で勉強しようぜー! 今日はなんとスペシャルDVDを」


「悪い、今日は帰るわ」


「はあ!? DVDあるのに!? ラピュタだぞ!?」


 正直それどころでは無かった。何よりも今日水瀬が学校に来なかったことと、深夜の公園での光景が頭を巡っていた。どうか、ただの偶然でありますように。どうか、目が合ったと思ったのは俺だけでありますように。


「なんだよ和臣、お前今日マジで暗いな。どうした?」


「……なんでもない。気にするな」


 帰り道に、あの公園へ寄ってみた。

 深夜に水瀬がいただろうあたりを確認したが、何も残っていない。

 やっぱり夢か、とほっとしたのも束の間。


「七条くん」


 背後から突然かけられた涼やかな声に、ばっ、と振り返ると、そこには制服姿の水瀬が立っていた。肩に落ちた長い髪をさらりと払い、両腕を組む。恐ろしいほどの無表情で、俺を見下ろすように顎を上げて。


「七条くん、昨日ここへ来たでしょう」


「来てないよ」


「見たでしょう」


「見てないよ」


「嘘、ついてるでしょう」


「ついてないよ」


 水瀬は無表情のまま視線を外し、はぁ、と息を吐いて。


「ちょっと、話がしたいの。今から暇かしら?」


「いや、テスト勉強しないと」


「暇ね、角の店に行きましょう」


 今すぐ帰って勉学に励みたい勤勉な俺を、水瀬は無理やりコーヒーショップへ連れていった。


 これは何かまずいことに巻き込まれているかもしれないと、どこか他人事のように思っていた。



「私が奢るから、好きなものを頼んでちょうだい」


「じゃあ、フラペチーナで」


「一番高いの頼むじゃない」


 それでも表情を変えなかった水瀬はブラックコーヒーを頼んでいた。水瀬は、砂糖もミルクも入れずにただ無表情で、真っ黒な液体を飲んでいた。


「それで、七条くん。昨日の事だけど」


 唐突に、整いすぎている顔がこちらに向けられた。それに思わず一呼吸詰めてから、口を開く。


「俺、実は昨日の記憶がないんだ。だから、さっきから水瀬が言っていることはよく分からないな」


「とぼけるにしてももう少しマシなとぼけ方があるでしょう?」


 水瀬が虫を見るような目で俺を見た。綺麗な顔は、ただそれだけでここまで人の心を傷つけるのかと自身の胸の痛みで新たな発見をした。


「まあ、話を続けるわ。昨日のことは、絶対に誰にも言わないで。言ったら消すわ。以上よ」


「わかった」


「やけに素直じゃない」


 水瀬はまた真っ黒なコーヒーをまた1口飲んで、酷く冷たい目をこちらに向けた。


「七条くんは、気にならないの? 私、結構普通じゃない自信があるのだけど」


 ここで質問なんてしたら面倒ごとに巻き込まれそうじゃないか、とか、気にならないから消さないでくれ、とは思ったものの。


「あーー。水瀬、どうしてわざわざうちの高等部に? 春から引っ越してきたんだよな?」


 水瀬はここの地域の出身では無いらしい。高校生にして一人暮らしをしているという噂を聞いたことがあった。


「気になるのはそこなの? まあ、いいわ。引っ越して来たのは実家から出たかったからよ。……昨日みたいなことがあるから」


「実家で何かあったのか?」


 汗をかいたストローをまわす。自分のカップの中の真っ白なクリームをかき混ぜながら、水瀬の真っ黒なコーヒーに目線をずらした。


「実家で、私は異常だったのよ。私だけ、視えたの。……忘れてちょうだい」


 自分で言ったことを後悔するように、水瀬はふいと視線を外した。それでも、その顔は冷たい無表情のまま。


「へえ。じゃあ、水瀬の家は普通の家だったんだ」


「……ええ」


「……まさか、今までずっと一人であんなことしてたわけじゃないよな?」


「そのまさかよ。……おかしいと思うなら思えばいいわ」


「じゃあ、水瀬が妖怪とか見えるのは、他に誰も知らないってこと?」


「ええ。.......あら? 私、妖怪だなんて言ったかしら?」


「夜、水瀬が消したやつ」


「七条くんも視えるの!?」


 水瀬がばん、とテーブルから身を乗り出した。ただでさえ大きな目はさらに大きく開かれ、白い頬にはうっすら赤みがさしていた。初めて見た水瀬の表情の変化に、思わず息を呑んで。


「ま、まあ、とりあえず行こうか」


「行くって……どこへ?」


「役所」


 味のしなくなったカップの中身を一気に飲み下し、席を立った。

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