エルフとジプシー

さて、この日は製薬会社の社員と会う日だった。

待ち合わせのパブに向かう途中で白いシーツに覆われた何かを見たのだが、僕ははじめそれを牛か何かだと思った。

大きさがそのくらいだったし、かたちもそれっぽい。

だがシーツからほんの少し覗く足が、蹄のようにもぬかるみにつかってボロボロになったブーツの先端のようにも見えて、気になった僕は中を見ようと首を伸ばした。


その時、どすの利いた女の声が聞こえた。


見ると入り口にガス燈のある2階建ての建物の前で、スカーフで頭を覆った中年の女が子どもを叱りつけている。

僕の視線に気づくと、女はまぶしそうに目を細めてくちゃくちゃと口を動かしながら独り言のようにつぶやいた。


「月にとりつく蟹」

と。


あれは、多分円砦のジプシーだ。

円砦のジプシーはごく小さなグループを作って荒野に住み、よそ者とは決して交わらない暮らしを続けていたため、絵画の対象となったりオペラが作られたりと長らく伝説的な存在となっていた。


しかし数十年前に疫病の流行をきっかけに都市に定住するようになり、それからはゴミ拾いなどで生計を立てるようになった。

習慣や価値観も違うため、もともと住んでいた人々との軋轢も多い。


文明社会とつながればその最底辺に位置づけられる。

だが断絶されていれば「物語の世界の住人」だ。


かくて円砦のジプシーはおとぎの世界から引きずり降ろされ、社会問題の文脈の中でしか語られることはなくなった。

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Absence of existence 日音善き奈 @kaeruko_inonaka

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