第13話

 ヲサカナの白い作品像が、たった一撃で粉々に砕け散って後方へ吹き飛ぶ。その影を追うようにして、荒れる炎の海がさざめきにも似た輝きで鎮火していく。最後には何の変哲もない、いだ海が残るだけだった。ヲサカナを打ち倒した報酬は、何もないのだ。


陥没樹海メルトグリーンさん、やりましたね!」


 開け放った窓から大声で呼び掛けてみるも、返事がない。

 不意に、何か異変を察した士々瓦さんが水面の上に立つ陥没樹海メルトグリーンさんの傍へと、損傷の激しいテスタメントハーマーを走らせる。オンボロの車体を際に寄せると、ソファに置いてあった何かを掴んで、出口まで駆け寄った。今にも外れそうな扉を限界まで開けると、ほぼ全ての装備を降ろし、両手で獣の頬を包み込む。戦闘というよりも散歩に出向きそうな恰好で真正面に立ち、向き合う形で声を発した。それは雄叫びや怒声に近い響きで、けれども相手への労りがある。必死の呼び掛けだった。


「聞こえますか、メルトさん! オレです!」


 やはり返事はない。赤々と燃える瞳は硝氷ガラスのようでいて、ひどく獰猛だ。吐く息は炎よりも熱い。今にも前足で頭を砕きそうな、弱者を吟味する目付きで睥睨へいげいする。


 士々瓦さんがすかさず動いた。手袋の上から握っていた何かを獣の唇の隙間へ捻じ込むと、火を付ける。とたんに辺り一面にすっとした臭いが立ち込めた。一服の煙草だった。嗅覚に反応してか陥没樹海メルトグリーンさんが吟味をやめて、ゆったりと目を閉じた。


 上る煙を見つめながら待つことしばし。半分ほど吸ったところで、今度は優しく声を掛けた。士々瓦さんに焦った様子はなく、私は二人の様子をそっと見守っていた。


「メルトさん」

 呆れたような、それでいて疲れたような声。著しく感情の低い声で彼は言った。

「……ああ、聞こえた」


 瞳を閉じたままに、ゆったりとした声が返ってきた。語調はやや遅いが私達と同じ言葉で返事をする。猛っていた獣の言葉ではなかったことに、安堵した。獣の姿のまま、彼は一言「すまない」とだけ謝った。

「いいですよ。反撃手段はあったんで」

 さも当然のように士々瓦さんが囁いた。隠すように、煙草を衣服のポケットに入れた。

「殴る前に一服しておいて良かったですね。これで」

「夢を――見ていた。懐かしい夢だった」


 私達のことも任務のことも忘れ、まるで視界の裏に広がる光景に想いを馳せている。心の中で風を感じ、深い呼吸をし、安住の地が損なわれていないことを喜んでいた。


「…………」


 ほんの少し憂うように足元を気にかける。

 車内は浸水が始まっていて、もう足が隠れるほど水が上がってきている。私達は、武器を捨て装備を捨て、愛用したテスタメントハーマーを捨てて出来る限りの軽装になり、本来の姿に戻った陥没樹海メルトグリーンさんを見つめた。彼は崩壊した悪性橋をひとしきり瞳に映すと、うっすら微笑んだ。


「さて、行くか」


 瓦礫の降りしきる中、妖精の歌声が響く。それは彼の翼がはためく音。光輝く毛並みの背にまたがって、私達は遥か空を目指した。私のよく見知った悪性橋は朱と灰色の砂塵となり、誰も彼もが無に消えた。


 波がさざめくだけの穏やかな光景を目にしたときに、少しだけ。


 こみ上げた。

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