第3話

「士々瓦さんは何て言ってたんです?」

「机の資料を読め、と」

「たったそれだけですか?」


 疑いと驚きの念を包み隠さず、私は眉根を寄せた。唐突にこの橋の上から去った士々瓦さんは、別れの挨拶をすることなく、また目的も告げなかったからだ。


 深い苔色の特攻単車バイクが砂を伴って爽快に走り抜ける。私の愛機はそのタイヤに砂埃を巻き付けて前進していた。これは元々とある老人の持ち物だったため、譲り受けたはいいものの女の私には機体が大きいのが難点だと思っていた。だが、陥没樹海メルトグリーンさんが操縦すると驚くほどの安定性を見せている。けれど前の持ち主はガタイが大きい訳でもなかったし、とすると純粋に、男性のための機体なのかも知れなかった。こうして豪快に駆け抜けることがバイクにとっての冥利に尽きるということかも知れない。私は荷台に跨って悪性橋の奥に位置する、なだらかな丘の上を目指していた。両端に大きく聳え立つ歯車は全て欄干であり、橋の一部だ。経年劣化によって赤い錆を生じているものの、巨大な橋に相応しい密度と重量で、見るものを圧倒させる。


#K396S-CF3131Xオメルテシック=ティルトティダーに来るのも久し振りだな」


 オメルテシック=ティルトティダー。それが士々瓦さんの細密技工房の名前だ。彼は若くして街唯一の、戦武探究を基点とした浮幻金属術師だが、橋の上の住民にはよく思われていない。その原因は理科工学の未発達が大きい。私達は手足ないし、全身を譲り受けているからこそ、緻密さや技術の高さを知っているけれど、一般からしてみればガラクタの中に埋もれる奇特な少年でしかない。寡黙な彼が陥没樹海メルトグリーンさんにだけ言伝ことづてをしていたなんて思ってもみなかった。複雑な機械装置の職人である彼が、自分だけの領域に他人を入れることはないだろうと考えていた私が甘かったようだ。


 やがて前方に、巨大な魚にも似た金属の集合体が見えてきた。遠くから見ると狭い空間に凝縮された工業地帯のようだけれど、外観は翔翼機ヘリコプターの見立てだった。両脇に大きな蝙蝠の翼が二対ついている。境には鳥の羽が植わっていて、二つの羽で空を飛ぶらしい。機体のてっぺんには、蒸気を噴く機械仕掛けのタツノオトシゴが向かい合っていた。周囲で右往左往する配管との相性もあってか、とても愛らしい。


 バイクの排気音が徐々に小さくなると、どこからかアラベスク第一番ホ長調Andantinoアンダンティーノ Conコン Motoモートが聞こえてきて、自然と玄関先に目を向ける。丸みを帯びたアール型扉の向こうから、クロード・ドビュッシーの調べが流れているのだった。


 エンジン音の停止した愛機から抜き取った鍵を私に放り投げ、陥没樹海メルトグリーンさんが出入口に立った。脇にある紐を引くとベルがなる設計のようだが、呼び鈴だろうか。扉には何やら星座や様々な文字の並んだ円盤が幾重にも折り重なっていたが、どうやら認証機器の類らしい。声帯認証から虹彩認証、果ては固体認証に至るまで、しっかりと検査されたのち、彼は古風な鉄輪に手をかけた。扉はすんなりと開き、無人だった気配すらない。それどころか生活環境を忠実に再現しつつも、清潔を保つような工夫が成されている。


「失礼する。士々瓦よ」


 開けた先に玄関はなく、靴のまま家に上がった陥没樹海メルトグリーンさんの後に続く。工房と水周りに分けられただけの簡単な造りであるのに、設計の秀逸さと機工に対する愛着が見てとれた。右脇にシャワー室やキッチンなどがまとまっていて、他のスペースは工房と住居区画らしい。はっきりと分かれているのもまた、士々瓦さんの性格が現れているようだ。そして驚いたのは、工房のほぼ全てが鉄と楽器から構成されていることだ。壁一面に金管楽器の工部品が組み込まれ、蓄音機スピーカーの役割を果たしている。先ほど聞いたアラベスク第一番もここから流れていた。左脇には鉄製のベッドがあり、真空管やガラス管が並んでいる。中には文字や数字を灯すものもあり、時計や電光掲示板などに応用されていた。枕元には蓋の開いた空瓶がそのままだったり、皮製の枕カバーが投げてあったりと、作業途中の光景にも愛嬌が湧く。天井は一枚の金網で覆われているが、奥にはフィルターと巨大なプロペラが見えた。空調と清潔を一度に管理し、生活を演出する翼は、もともとこの翔翼機ヘリコプターが持っていたものだろう。どんな仕組みなのか見当もつかないけれど、これのおかげで埃の出ない工房が実現されているのか。電飾や電球が数え切れないくらい垂れ下がっているけれども、落ち着いた雰囲気の工房にささやかな華を添えていた。


「これだな」


 部屋を見回していた私とは正反対に、陥没樹海メルトグリーンさんはまっすぐに目的のものを見つけたようで、卓上の資料に目を通していた。私は、これまた楽器を組み替えた作業机に魅入る。正面にパイプオルガン、両脇に筒状のオルゴールとテグス巻きが縦に並んでいて、書類や図面を入れる棚として使われている。肝心の作業机は部屋の奥に鎮座しているが、ピアノの弦がガラス越しに見えた。一番上の引き出しを開けると、中にはピアノの鍵盤が敷いてある。出入口で見た多種多様な文字や記号が全てのキーに彫り込まれているため、タイプライターとしても使えるに違いない。他の段にはストックの獣皮紙や古紙が入っていたり、筆記のための補助道具が丁寧に納まっていたりと、書く作業も大切な一工程なのだと知る。そして、椅子は椅子でまた上質な造りだった。基盤になったのは花空引織機ジャカード電動縫合機インターロックで、大きな手回しハンドルが背凭せもたれになっている。蜂や蜻蛉の翅をって作り、歯車とともに椅子の装飾として用いた技法は浮幻金属術師の名に相応しいと感じた。なめし皮が張ってあるので座り心地も良い。


 やはり仕事に打ち込んでいる際はずいぶんと夢中になっているようで、端のスペースに力作が並んでいた。反対に机や床の上には材料であろう金属が散乱している。仕事道具は広がった端材の近くにあり、これは逆に丁寧に揃えられていた。


「さっきから読んでるそれ、何ですか?」


 私は工房を堪能しきってから、一息いて尋ねてみる。


「士々瓦の考察だ。一定年数が経過したら目を通すようにと伝えられたからな」

「『計器重機に関する工学的考察と見解』とかだったら頭痛くなりそうだなあ」

「記載されているのは、時間軸と空間固定に関する誤差修正と、民話や都市伝説の類だ」

「ん? 戦武探究を基点としてる金属術師が何で迷信なんか……」


 陥没樹海メルトグリーンさんはといえば、私の疑問もそこそこに納得していた。資料を一読したことで何か得たようだけれど、果たして私が読んだとして同じ結果に辿り着けるのだろうか。


「迷信も史実の末端とすれば、妥当な落とし所は実地調査か」

「さっきから何言ってるか全然分かんないですよォ。もっと簡潔にお願いしますってば」

「橋の下へ行く。準備しろ」


 端的ではあったものの、今度は唐突すぎて理解が追い付かなかった。とりあえず言われたことをしようと思い、ポケットの鍵を手渡す。


「分断された街にわざわざ行くんだ? 物好きだね」

「当然だ。士々瓦の考察によると、この橋だけが時の流れから孤立してるらしい」

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