第2話

 カンラカンラと独特な音の鳴る大河に、しばらく浸っていた。その大河の底には古代の鈴や銅鐸、鏡や貴金属等がひしめいて地盤を形成しており、それが流され、水中で回転することによって音を奏でていた。河のすぐそばには巨大な背徳宗教的芸美術壁画ディベレキラが棚田のように連なっており、歴史的価値が壁面にぶら下がっている。もしくは寝そべっている。


 ディベレキラの前では人の波が絶えない。格子状に敷かれた鉄の上を歩くのはいつだって商店街へ向かう客足だけれども、ディベレキラを踏み付けて歩く人々もまた、橋の上の住人と決まっている。褐色肌の男性は衣類の下がった竹棒を担いでおり、沿岸を歩く女性は布を張り合わせた、大きく平たい傘を持っている。忙しない大人の合間を縫って走り回るのは近所の子供だろうか。手には黄色い果実を握っていた。


 私達は、巨大な橋を基礎として街を作っている。通称̩̩̩悪性橋あくせいきょうと呼ばれる橋の上下にそれぞれ別の街と文化を築いているのだ。橋上の住民は景下けいか、橋下の住民は香下こうかと呼び合い、住み分けも徹底しているが、別に仲が良い訳でも悪い訳でもなかった。ただ、交流そのものが活発でないだけなのだ。


 景下は皆、不格好な塔で暮らしている。それは相互循環教唆屋根ドッペルテキンセンションと呼ばれていて、さして大きくないものの、景下全員を納めるだけの広さを持っていた。だから塔の前に広がっているこの道も、住人にとって馴染み深い。悪性橋の上にはたくさんの露店が設けられ、連日賑わっている。


 私達は至って呑気に生きているけれど、非潤聖者カンタララ・ロスが生きているこの世にも、薬物があり、賭博があり、内臓売買がある。それはつまり、怨恨があり、密約があり、また金がある。この要塞都会の様相にも似た薄暗さを、苔生こけむした裏通りのカビ臭さに見る。


 街に心臓はない。嘘に塗れ、汚泥と薬害に塗れたドッペルテキンセンションには、どんな臓器があっても意味を成さない。個々の細胞の質が悪すぎるし、救いがない。そも、救いを求めてなどいないように思われる。薬に溺れて狂死するのだから、栓のない話だ。逃げようにもこの島は巨大な中洲で、逃げられない。


 しかし、私は悪いとも思わない。この島で、この街で、楽しく仲良くやっていくのも悪くない。そういえば言っていなかったが、私の家は皆と同じような場所ではなく、報営機梯子棚ハーキータ・ラックと呼ばれる、ドッペルテキンセンションの外部に出っ張った電波屋敷に住んでいるのだ。正式名称は狂械義解教界きょうかいぎかいきょうかいだけれども、愛称を覚えている住民の方が多い。それだけ面識が多く、馴染みやすいのだろう。私の性格も呑気なものだし、社交性はあると自負している。


 さて、紹介が遅くなってしまったけれども、陥没樹海メルトグリーンさんの話をしよう。


 両腕にばかり目が移りがちだけれども、橋の上では見たこともない服に身を包んでいる。センスがあるのかないのか、動きやすいのか否かさえ分からない。最初に見かけた時からずっと愛用しているようで、ここの服は全く着ていない。


 彼の外見は見ての通り奇抜一色だけれども、彼も彼でドッペルテキンセンションの内部に住んでいる。元は空き家だった場所をぶち抜いて作った二階建ての店だ。本人は酒屋と言い張っている店で、名を逢來圏ホゥライケンという。人体を改善する薬剤や調合法の情報、独自の方法で製造した明酒めいしゅを売っている。酒と銘打っていても、麻薬を糧に人間そのものが持つ生命力を引き出すという、少々変わったお酒だ。薬に近い。


 だけど、当の本人は紫煙をくゆらせており、身体上よろしくないと思う。どうせなら徹底して健康志向を目指せばいいものを、客に副流煙を吸わせてどうするのだろう。まあ正直、自分にはあまり関係のない話題だけれども、それは陥没樹海メルトグリーンさん本人もそう思っているから煙草を吸っているのだろう。そのくらいは察しがつく。


 陥没樹海メルトグリーンさんに言わせれば「自分は二万年程度生きたからもう充分だ」という話だが、その歳まで生きる人間はもはや人間ではないとも、私は思う。どうせ似合わない冗談でも言って和ませてくれているんだろう。


 かく言う私も人間らしい部分は脳しか残っていない。身体のほぼ全てが士々瓦ししがわら陽当ひあたりさんの力作であり、武器であり機械だ。人体に限りなく近い風格と風合いを持つ戦闘用女性型機械というのが彼の主張だが、作った超本人はもうこの島にいない。駆動してから実に百七十年ほど経過した私だけれども、機能停止になった部位はない。どころか不調に陥ったことすらないのだから、戦慄してしまうような節もある。まあ私がこんなだから、陥没樹海メルトグリーンさんも世話焼きなのだろう。あの人の義手や義足も士々瓦さんが製作したものだし。


 繊細な木の義手で器用に煙草を挟みながら、紫煙を吐く。片一方だけの、獣じみた瞳で「何だ」と眇める様子は人間というより、野生動物に近い。

 酒屋と空き家の境にある狭苦しい喫煙所で、煙草の先端だけが一際強く光る。こちらを睨んだ眼光は、仄明るい影に阻まれて窺い知れない。


「休憩ですか?」

「ああ。お前はどうなんだ、人間」


 陥没樹海メルトグリーンさんは私のことをいつもこう呼ぶ。自分も人間なのにと、私は思う。


「その言い方はやめてくださいよ。スーリィェンって名付けたのはどこの誰ですか?」

「さあな。とにかくそのふざけた格好はやめることだ。壊れたら元も子もない」

「いいんです。これ、結構気に入ってるんで」


 茜色のフルジップパーカーに黒いスカート。タイツを黒に統一し、ロングブーツの色も赤と黒に徹底しているのに、何がどう気に食わないのか。

 正面にいる陥没樹海メルトグリーンさんは何も答えない。改善してほしいはずなのに、直すべきところを言わないのはおかしい気がする。

 それとも、この島に常識を求めること自体が間違っているのか。


「今日は放送しないのか」

「しますよォ。もちろん」


 語尾を伸ばしながら仕事場に足を向ける。その気になれば一瞬で跳んで帰ることも出来るのだけれども、優雅じゃないとも思う。


 私の仕事は一日一回。ハーキータ・ラックでこの島全土に放送を流すこと。内容はその日によって様々だが、政治、民間、個々人の内容を自分勝手に選別し、伝えている。早い話が、えらく偏ったラジオのようなものだ。


「そうか。じゃあ、今日が何の日かわかるか」


 唐突な、それでいて大切な問いに絶句した私を見て、彼はただ一言「行くぞ」と告げて歩き出した。

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