第7話
「この度は、ご迷惑をおかけしました。私の方からもしっかりと言い聞かせます」
「いえいえ、とんでもない。こちらこそご迷惑をおかけしました」
大人の女性二人が、よそよそしく頭を下げ合っています。うち、一人はツルリンの母で、もう一人は、麗子ちゃんの手を引いています。長い髪を垂らし、深々と頭を下げる女の人は麗子ちゃんのお母さんでしょうか。ツルリンの母より、子供ながらずいぶんと若い様に見えました。
「ほら、麗子。行くよ」
そう言うと、麗子ちゃんのお母さんは、麗子ちゃんの手を引いて離れていきます。結局大人に見つかってから今まで、麗子ちゃんはツルリンに目すら合わせてくれませんでした。車の中でも、校長室でも、ツルリンが麗子ちゃんの方を見ても、素っ気なく向こうの方を見るのです。
「はぁー……」
母が深く長いため息を漏らすと、ツルリンの血の気を下がらせていきます。麗子ちゃん達が、学校の駐車場に停めてある車に乗り込むまで、母は遠くなって行く二人の背中を見つめていました。
そんな間、ツルリンはずっと下を向いていました。今後の事を考えると超絶ブルーです。
麗子ちゃん達が乗った黒い車は、ツルリン達が立つ、向こう側へと走っていきます。そんな様子を見届けてか「帰るよ」と母は一言漏らし、見慣れた車の方へ歩いて行きます。
……学校を抜け、車一台がようやくすれ違える程の道を走り過ぎると、見慣れた煙草屋と、ツルリンが自転車を買ってもらった自転車屋に挟まれた小路地に車が停車します。此処の赤信号はとても長く、捕まってしまったが最後、随分と待たされることになります。
嗚呼、そんな事を思うといつもの変わらない、近い場所へと帰ってきてしまったのだと改めて実感します。
「はぁ……ツルリン、一体何してたのよ?」
母は、何度目のため息でしょうか。ハンドルを握ったまま、目を合わせる事も無くツルリンへと尋ねます。しかし、ツルリンには考える余地も、答える余地もありません。今は、いつ飛んでくるかも分からない母の拳に、少しでも身を縮ませて、怯える他ないのです。
「ねぇ、だんまり? 言わなきゃわからねーっつうの」
母の一言一言に、ツルリンの身体が揺れ、思わず目をギュッと閉じてしまいます。何より、母の落ち着いた様子が一番不気味で、ツルリンは内臓が飛び出てしまうのではないかと思う程、何だがグチャグチャな気分でした。
刹那。
「いい加減にしなさい!」
母の唐突な怒声はツルリンの目をギュッと閉じさせ、肩へと力を入れて歯を食い縛りさせました。すると直ぐに、何か強い衝撃が顔を駆巡ると、熱を帯びた痛みが鼻先から顔中へと広がっていきます。痛みの余りツルリンは、鼻先を両手で押さえ、座席に座ったまま体を折り曲げて縮こまりました。
「この! 馬鹿が! 恥かかせやがって! ませた事してんじゃねえよ!」
停車した車の中、この閉鎖的な空間で、母の怒声とツルリンに打ち付ける拳の音が、背中や首部分を伝って鈍く響いていきます。一回背中を打たれる度に呼吸が一瞬止まり、後頭部分を打たれれば、酷く目が回りそうになりました。
そして母の「ッチ」と言う舌打ちと共に殴打は止み、車は発信していきます。
今までで、一番長く感じた赤信号でした。
車が走る中、覆った手のひらの中で、ジワジワと温もりは増して行きます。少し手を離して、チラリと一瞬だけ目を開けて見てみました。そこには今まで見た事も無いような量の血が滴り、ツルリンの手のひらを真っ赤に染めていました。いつの日か、赤い絵の具で手形を作った時の光景に似ています。
何故かそんな事を思い出して、仕方なく口で呼吸をしていると、自身の手のひらから返ってくる吐息よりも、熱を持った鮮血が鼻から下を温く濡らしていきました。雨とは違う濡れ方と、纏わりついた鉄の匂い。ひょっとするとこれだけ血を流したら死ぬんじゃないかな? なんて突飛な考えが脳裏をよぎります。
「あーあ……早く拭きなさいよ、ホラ」
なんだか汚い物を見た様な声で、母は何かを、ツルリンが座る助手席側へと投げます。顔を上げるとそれは箱ティッシュでした。急いで数枚取り、自身の鼻へと押し付けます。
「上向いて、上」
母の指示の通り上を向きました。そんな上を向いた横目。ツルリンを気にした様子で母は運転しながらチラチラと視線を向けてきます。今が今まで視線すら向けなかった母は、何だか気まずそうな顔をしていたのが、とても不思議でした。
すると、その表情のまま母は言います。
「ごめんね、ツルリン。でもね、悪いのはツルリンなんだからね? 悪い事したって自覚はある? お母さんとても心配したんだから」
何を言ってるんだ。こいつは。
「痛くない? 鼻血が出ちゃったみたいね。ホラホラ、上向いて」
だから、こいつは何を言ってるんだ?
「学校の人とか、色々な人に迷惑をかけたの。急に居なくなったら、事故とか、誘拐とか、色々あるじゃない? だから友達と遊びに行くのは良いけど、それは学校が休みの日とかでも良かったでしょ?」
【ふざけてんのか!! このクソ女ガアアアアアァァァァアアア!?】
走り行く車の窓の外、真っ黒な神様が車の速さについてきます。しかし、ツルリンは気にしません。どうやらもう、殴られる事は無いみたいですし、神様に聞くこともありません。それに、心配そうに話しかける母はいつもの優しい母の声でした。
「ありがとうございました。もうしません」
真っ赤な液体を見ていると、不思議と痛みが引いていきます。それと同時に、ペラペラと饒舌に話す母を見ていると……今すぐ横からハンドルを切って、自分諸共こいつを殺してやろうか。そんな不確定要素に塗れた感情が、腹の底から煮えたぎってくるのでした。
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