第6話
住宅街の軒並みを超え、細く緩やかなカーブを描く一本道。
錆色の踏切は、見慣れたアスファルトを遮断するように、横へと一直線に伸びています。線路は続くよ、何処までも。そんな歌が脳裏をよぎると、今こうして彼女の小さい手を引いて歩く途方の無い道の様でした。目的は無く、目指す場所も無く、春の心地の良かった気候も、小さな歩幅で歩き続けていると、湿り気が首を伝っていきます。
「あつい……」
後ろで、独り言の様にポツリと麗子ちゃんが喉を鳴らします。しかし、ツルリンは振り返ることなく、黙々と前だけを向いて歩きました。
見慣れぬ景色の中を、もうどれくらい歩いたでしょうか。けれど、此処はまだ遠くではない何処かだと、ツルリンは歩き続けます。道路は続くよ、何処までも。何処の行き付く先は、一体何処なのでしょうか。
「あ……。雨……。」
ポツリ。そんな擬音が、今度は空から降ってきました。火照った首筋に冷ややかな雫が一粒、二粒。自身の汗に滲んで消えて行きます。
三粒四粒五粒、いっぱい。沢山。直ぐに、数えきれない程の雨粒が、乾いた道路に音を立てながら点々模様を作っていき、その雨はとても冷たい雨でした。いつの間にか空の色は不機嫌になっていたようです。
「わっ! 結構降って来たね。あそこで雨宿りしようよ」
麗子ちゃんが指さす先に、小屋が一つ。ツルリンは麗子ちゃんの手を引きます。
「バス停だ……。少し座って休もう?」
トタン屋根を騒がしく叩く雨音は、激しさをドンドン増して行き、益々ツルリンと麗子ちゃんを、二人ボッチの世界に閉じ込めていきます。ひょっとするっと、此処が目指すべき何処か遠くなのではないか。そう思える程に、車はおろか、辺りを取り囲んでいた家々も姿を消し、座ったベンチから見える景色は、赤茶色に水を張った畑の水面を、いくつもの雨粒が落ちていく光景でした。
「ここ、何処だろうね」
周囲を叩く雨音に混じって、麗子ちゃんが言いました。
遠くの何処か。ふとそんな事をツルリンは思いましたが、なんとなく此処は遠くではない何処かだと、自身の胸に妙な突っ掛かりを覚えます。
……無言。雨。湿気。湿った木の香り。濡れたアスファルトの匂い。音。雨音。 トタンの音。降り注ぐ雨粒が、消え行く音。雨の檻。そして、無言……。
そんな絶妙な空気を振り払おうと、ツルリンは必死に考えました。学校の話? 友達の面白い話? この間のドラマの話? いいえ、どれもしっくりきません。しかしながら、パタパタと足を揺らし、降り続く雨を一点見つめる麗子ちゃんは、何だか退屈そうな目をしている気がしてならず、一先ず彼女視線の先、麗子ちゃんの退屈を和らげているであろう雨に負けじと、ツルリンは口を開いたのでした。
「麗子ちゃんは……何で、遠くへ行きたいの?」
退屈そうな麗子ちゃんの瞳が、ツルリンへと向けられます。やりました。先ずは雨の野郎から彼女の視線を奪う事に成功です。
すると直ぐに「聞きたい?」と柔らかな唇が一言分だけ動くと、麗子ちゃんの雨空の様な瞳がツルリンの眼を覗き込みます。
「いいよ。これからツルリンとは、ずっと一緒だから教えてあげる」
隣に座る麗子ちゃんはツルリンの膝の上へと左手を置くと、前屈みに顔を近づけてきました。目と鼻の先、仄かに香る女の子の匂いは、少し雨に濡れた麗子ちゃんからです。
ええ、これはきっとチュウです。間違いありません。もう一度、麗子ちゃんとエッチなチュウがしたいと思っていた所です。どんとこい。
「……見える?」
麗子ちゃんはそう言うと、余した右手で首元の襟を掴み、唐突に胸元まで下げました。微かに膨らみのある秘めた部分、そこは正しく……!
ウッヒョームッヒョー! オオオ! おっぱいいいぃぃあああああああ! とは、なりませんでした。何より、下着が有りますし、何より……一番初めに目に留まったのは、自身の身体にも良く有る、痣だったのです。
細く透けそうな白肌と、首元から横に伸びる、今にも飛び出しそうな鎖骨。そしてその下の胸元には、青紫色をした大小様々な痣が、転々と浮き出て白肌にまだら模様を形成していました。
「私ね、いつか、あの人に殺される。そう思うの……けど絶対嫌。だから、あの時
大好きなツルリンに殺したいって言われて凄く嬉しかった。こんなにも殺したいって言葉が、嬉しい物だとは思わなかった……。だからね、ツルリン……」
ゆっくりと、元の姿勢へ戻り行く麗子ちゃんは、何だか雨に濡れた様な顔をしていました。きっと、麗子ちゃんの雨空みたいな瞳が、雨を降らせたのでしょう。
「何処か遠くって言うのは……ツルリンが決めていいんだよ」
麗子ちゃんの求める何処か遠く。ツルリンは何となく、その言葉の意図が分かった気がしました。優しい麗子ちゃん。可愛い麗子ちゃん。可哀想な麗子ちゃん……。そんな彼女が悪い事をする訳が無い。きっと、麗子ちゃんが言うあの人とは、とても意地悪で、とても卑怯で、とても最悪で、とても最低で、とってもうんちなのでしょう。
【さぁツルリン! その子を救えるのは君だけだ!】
雨が叩く赤茶色の水田から、呼んでもいない神様がヌルっと現れます。そんな神様をツルリンは気に留める事無く、麗子ちゃんの首へと徐に手を伸ばし、悠々と手が回る程か細い首の喉元へ、指先に力を加えていきます。
「……ちょ……っと、待って……!」
締め付ける喉元を、無理矢理に空気が逆流してい感覚が指先に伝わり、麗子ちゃんの小さい唇から、雨音より小さな声が漏れだします。苦しそうに顔を歪める麗子ちゃんは、とても綺麗でした。赤くなり行く頬も、雨音に混じる嗚咽も……とても愛おしい。此処が、君の求める、何処か遠くなんだ。
「ね……え……キス……して……?」
微かに零れる彼女の声に、いつもより紅潮して見える彼女の唇に、僕は腹を空かせた獣の様にかぶり付く。その際、彼女を遠くへ連れ出そうと力を入れていた指先が緩み、荒い吐息に混じった舌先が必死に僕の口の中へと絡みついた。それはまるで、この世界にまだ執着を残しているかのように、深く、強く、僕の中へと纏わりつく。
「好き……ツルリン……大好き好き好き……」
そんな重なる唇と舌先の呼吸の合間に、零れるような声が僕の耳を撫でると、ハッとして指先に力を加えていく。早く、麗子ちゃんを助けてあげなきゃ、連れてってあげなきゃ、そんな気持ちが先行しつつも、力は緩み、直ぐに思考は一色に埋め尽くされ、さらに一部分へと集中していく。
それは、ズボンの中、パンツの奥。堅く硬直した……。
【勃起!】
いつの間にか、麗子ちゃんの首を絞めていたツルリンの手と、絡んでいた舌先と唇が解けます。すると麗子ちゃんは涙ぐんだ目で優しく微笑み、ツルリンの股間部分を優しく撫で始めました。それも、硬くなったミニツルリンをピンポイントに!
「ねぇ、キスの続きって、知ってる?」
濡れた声で、濡れた唇を拭いながら、麗子ちゃんは言います。その表情は、今まで見た事も無いものでした。昨晩考えていた、キスの続き……その先を、麗子ちゃんは知っているというのでしょうか? このムズムズとした気持ちに、ズボンの生地越しに伝わる心地よい感触と切なさに、続きというその先のモノがあるのを知っている麗子ちゃんは凄いと感心します。
ツルリンには全く想像できずに、首を傾げるだけでした。流石は女の子です。
「あのね――――」
麗子ちゃんが何かを言い掛けた時でした。突如、雨に濡れた道路の水を、回転するタイヤが水気を巻き上げながら、前を車が通り過ぎていきます。麗子ちゃんが何を言おうとしたのか、運悪くその音と重なり、ツルリンには、聞き取る事が出来ませんでした。もう一度、聞いてみる事にします。
……そんな最中でした。
「あ、居た! ツル岡君と松本さん居ましたよー!」
突然、ツルリンと麗子ちゃんの苗字を呼ぶ声が雨音を遮って響き渡ると、直ぐにビニール傘を差した大人が目の前に現れました。「もーこんな所にいたのねぇ。保護者さんも心配されてたのよ? さ、一緒に帰りましょう?」ニコニコと多い顔のシワをさらに多くし、オバチャンと呼ばれる人種の大人は手を差し伸べます。
視線を逸らすと、ほんの少し先に通り過ぎた車がいつの間にか停まっていて、もう一人、大人が傘をさして待ちぼうけている姿も見えました。
「ちょっと~学校に連絡してぇー! 二人ともいましたって~」
見知らぬオバチャンが、視線を車の先に送った時でした。
「……逃げよう。一緒に……ね?」
小声で麗子ちゃんがツルリンの耳を打ちます。
ですが……ツルリンにその言葉は、全く耳に入っていませんでした。
母に対する恐怖。一気に現実へと巻き戻され、放棄していた思考が螺旋状になり、ツルリンの小さな頭の中をグルグルと覆っていくのです。全身の血の気が引き、ツルリンは……もう躾をされること以外、考えられなくなっていました。
すると、「ツルリン!」と麗子ちゃんの声が響きます。それと同時に、ツルリンの手を引く衝撃が、体を揺らしました。揺らすだけで、ツルリンの足と腰掛けた尻は、深く根を張った木の様に動かなかったのです。
「ツルリンの嘘つき」
そんな悲痛を極めた様な麗子ちゃんの声を聞いたのが……。
……最期でした。
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