第5話
「ほら、起きろつーの。学校でしょ」
微かに体を揺らす衝撃に目を開けると、電球とは違う眩さが目を突き刺します。いつの間にか夜空と反対色になった朝空が、鬱陶しく陽の光を投げてきました。
若干の苛立ちを覚え、おぼつか無い足取りでフラフラと浴室へと向かうと、まだ冷たい水道水を顔へと塗り込み、涼しいお菓子の様な味がする歯磨き粉で歯を磨きます。いつの間にか朝が来ました。……今日は……学校へ行きます。
「おはよう、ツルリン」
居間へと戻ると、昨日の夕方にいた男の人が、コーヒーを片手にツルリンへと微笑みかけます。当たり前の様な顔をして、居間のソファへと腰を下ろしているのです。
「あんたさぁ……おはようぐらい言ったら?」
母は煙草を咥え、溜息交じりに煙を吐き出します。
その様相はまるで怪獣の様でした。
「ハハハ、良いんだ。ゆっくり慣れて行けば、な? ツルリン」
頭を馴れ馴れしく撫でる手は、ゴツゴツと大きく、重圧のある手でした。ゆっくり。慣れる。そんな言葉に違和感を覚えつつも、ツルリンはランドセルを背負います。朝ごはんは食べません。これがいつも通りの朝です。
「いってらっしゃい。終わったら帰ってくるのよ」
「いってらっしゃい、ツルリン」
そんな母と知らぬ男のたわいも無い、いってらっしゃいを背に、ツルリンマンションから外の世界に通ずる鉄扉を開けると軋む様な音が響いていきます。ツルリンの一日は、この鉄扉の軋む音で始まり、軋む音で終わります。
ツルリンは……今日も元気です。
昨日。麗子ちゃんと約束した公園は、通学路から反対方向にあります。マンションの階段を下りながら、鬱陶しい朝日に目を細めていると、学校の方角を目指し、ランドセルを背負った小学生達が、チラホラと歩道を歩いて行くのが見えました。勿論、その歩行進路を遮って、逆方向を歩くランドセルは居ません。
麗子ちゃんはもう公園にいるのだろうか。もし、このまま学校に行けば、ツルリンは麗子ちゃんに殺されてしまうのではないか、そんな事を考えると気が気じゃありません。何だか軽佻な意識の中、あっ。という間に階段を下りきると、ツルリンには二つの選択肢が与えられました。
右か、左か。単純で至ってシンプルな選択肢です。
このまま左に進めば、ランドセルの列に入り、いつも通りの日常と学校が待っています。しかしながら右に進めば、そこは未知の……。
【進め!】
ツルリンは、疎らに歩くランドセルの列へと入り……その流れに逆行しました。
いつもと違う景色。すれ違う学校の下級生や上級生。疎らではありますが、時折同学年の人の姿も見えます。しかし、ツルリンを一瞬だけ見ると、直ぐに歩行進路へと目を向けてすれ違っていきます。何てことない、只の通学です。
そう、これは一緒に学校へ行く友達を迎えに行くだけです。そう言い聞かせながら、こみ上げてくる罪悪だとか、母に対する畏怖だとかを、進む足と動き行く道を見つめながら、言い聞かせました。
麗子ちゃんと待ち合わせしている虹の橋公園へは、そんなに距離は有りません。ちょっとだけ下を向き、右左と交互に見える自身の足を数えながら歩くだけで、その公園のモチーフである川べりに掛った橋に虹がアーチを描く大きなシンボルが姿を現します。
多分、後……歩いて500メートルくらい? それぐらいです。
ふと顔を上げ、後ろを見渡してみます。
いつの間にか通学するランドセルの姿は、片手で数えきれるぐらいになっていて、シャアシャアと道行く車が通り過ぎていくだけ。
ツルリンはいつも、チャイムが鳴る10分前ぐらいに教室にいますが、きっと、あの時学校へ行くことを選んでいたら、今頃ランドセルを戸棚へとしまい、友達と昨日見たテレビの話でもしている頃でしょう。
しかし、後悔は有りませんでした。昨日の麗子ちゃんの満面の笑みと、恐ろしく冷たい言葉を思い出すだけで、色々な考え事が吹き飛んでいくのです。そんな、道を歩くランドセルの姿は誰も見えなくなった頃でした。
「ツルリン!」
と、虹のアーチの掛かる橋の方から、呼ぶ声が聞こえます。一瞬だけその声にキュウッと心臓を掴まれると、声のする方へと急いで目を向けました。
「来てくれたんだね」
橋の上、虹の下。笑顔で手を振る、麗子ちゃんです。
目を合わせるなり、急いだ様子で公園の方へと橋を渡り切ると、虹と空に掛る白い雲を連想させるワンピースを、フワフワと揺らし、此方へ歩いてきます。
何だかその白を見ているせいか、ツルリンの頭の中も真っ白になりました。学校とか、母とか、怒られるとか叩かれるとか、どうでもいい。
……今この世界に、僕は麗子ちゃんと二人っきりなのだから。
「約束、守ってくれたんだ」
下歯の抜けた口でにっかりと笑うと、麗子ちゃんはツルリンの手を取ります。脅迫じみた昨日の言葉を思い出しつつ麗子ちゃんの顔を見つめると、その笑顔は晴天の様に晴れ晴れしていました。
これが、本当に殺されることを望んでいる人間の笑顔なのでしょうか。
これではまるで……。
「ねー。何か言う事ないの?」
パッと手を離し、後退りで数歩下がる麗子ちゃんは、後ろで腕を組み、白々しいワンピースを揺らしながらクルクルと回ります。時折垣間見える華奢な大腿と、掃き潰れた赤のスニーカーが印象的でした。
「せっかくお洒落してきたんだから、可愛いの一言ぐらいあってもいいんじゃない?」
わざとらしく頬を膨らませる麗子ちゃんは、口内に溜めていた空気をプゥ~と吐き出すと、再びわざとらしい笑みを見せます。
【これじゃあデートじゃねえか!】
「とても……とても可愛いよ。麗子ちゃん」
今までのツルリンの気苦労など……何事も無かったかの様に麗子ちゃんは笑います。ひょっとすると昨日の麗子ちゃんの言葉は聞き間違いだったのでしょうか。それとも、全ては気のせいで、自分が言ったことも全部あの異質な空間が巻き起こした嘘か夢だったんじゃないだろうか。
そして今……僕の目の前で無邪気に笑う女の子は……誰だ?
「行こう、ツルリン!」
ツルリンに伸びる、細く、透き通る様な白い腕。差し出された小さなこの手を握ってしまえば、また何処かへ連れていかれるのではないかと、少しばかり躊躇います。いいえ、何処かではなく、もう戻れなくなるんじゃないか。そんな気がしました。
「約束。したよね? 殺したいんでしょ? 私の事」
夢じゃ……無かった。張り付けた笑顔で無理矢理に口角を上げ、闇底の様にツルリンを見つめる瞳は、まるで、神様の姿を彷彿させました。黒く、歪んで、淀んで……。
「ツルリンは約束破ったりしないもんね」
そっと手を置おいた麗子ちゃんの手のひらは、獲物を捕らえた獣の様に力強く握り返します。ツルリンの手の甲に食い込む爪の痛みさえ、今や心地よいとも思えました。
「殺すって、人の事を死なせたり、消しちゃったりする言葉でしょ? でも、どれもしっくり来なかった。けれど、ツルリンに言われてハッキリ思ったの。私を助けてくれる。救ってくれる。何処か遠くへ、連れて行ってくれる……きっと、そんな言葉だと思ったの」
ポツリと、淡々とした抑揚で麗子ちゃんが言いました。長閑に芝生が広がる平坦な公園の真ん中で、世界で二人っきりの僕と麗子ちゃんは手を握り合ったまま、見つめ合います。何故かその言葉で、不思議と、ツルリンの心は春の気候にピッタリな程、穏やかで澄んでいきました。
「ツルリンは……私の事好き?」
麗子ちゃんの言葉に、ツルリンはただ頷きます。
【そうじゃないだろ】
確かに麗子ちゃんの事は好きです。それはもう殺してやりたいくらいに。しかし、自身の浮ついた纏りのない、漠然とした「殺したい」に対し、麗子ちゃんの言葉で変に納得してしまった自分がいました。
そうしたければ、だれも麗子ちゃんを知らない所へ連れて行ってしまえばいい。そう思える気がするんです。
そう思うと……強く握る麗子ちゃんの手を、力強く握り返す自分がいました。
「……行こう。麗子ちゃん。何処か遠くに」
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