第4話
夕暮れ時。太陽が勝手に空をどんどん赤く染め上げていくので、ツルリンは、なんて勝手な奴だと、憤りすら覚えました。しかし、そんな気持ちも、直ぐに腹ペコが掻っ攫っていきます。今日は珍しく、母は居ません。
部屋の広さには似つかわしい程大きい革製のソファの上で、ツルリンは勝手に染まって行く夕暮れ色の空を眺めていました。
存外、普段より空が近く見える気がする窓の景色。10畳程の居間を通り抜け、吹き抜けになっている台所を過ぎ、玄関方面へと目指して、少しばかり肌寒くなった風が通り抜ける此処は、ツルリンマンションとお友達たちは呼んでいます。
五階建ての三階の部屋。此処がツルリンの世界です。
「ただいま」
夕暮れ空を見ながらぼんやりと腹の音を鳴らしていると、母が帰って来ました。台所の先へと、ソファに寝そべったままに目を向けます。そんな母の後ろに、大きな体をした男の人がはみ出て見えます。はて、誰でしょうか。
「こんにちは、ツルリン君」
圧力的な体躯に、色黒く焼けた肌。色付きの眼鏡の奥の眼差しは、ツルリンを見つめたまま弧を描きます。大人の男の人。何だか少し怖くなったツルリンは、目を逸らしました。
「ほら、挨拶なさいよ。黙って無いで」
買い物袋をクシャクシャと音を立てながらダイニングテーブルの上に置く母は、此方に目を向けず、買った何かを無造作に取り出しています。その中に見慣れた料理の写真パッケージ付きの箱が二つ。ワァイ! 今日はカレーですね。
「ハハハハ、きっと驚いてるだけさ」と、男の人は、口の上に溜まった埃の様な髭を、豪快に歪ませます。驚くも何も、こいつは誰なんだっつーの!
「まぁいいけど。ビールでも飲む?」
「ああ、貰おうか」
あたかも、何事も無かったように、日常的に、普段通りに、いつも通りに、母と男の人はやり取りを続けています。ひょっとすると、この人は最初からここに居たのかもしれません。おかしいのは……僕の方なのでしょうか。
「ツルリン君、学校は楽しいかい?」
髭に泡を付け、重圧な色付き眼鏡の奥、男の眼差しはツルリンを見つめます。そんな眼差しに目を離せず、ツルリンは無言で首を縦に振りました。
「ハハハハ、そうかい。おじさんはね、お母さんの事が好きなんだ」
好き? 好き……好き? この男の人が言う「好き」は、なんだかツルリンが思う「好き」と大きく違う気がしました。とても温かで、朗らかで、まるで春の陽気のように穏やかな言葉です。
しかし同時に、ツルリンの心の奥底で、何かがフツフツと音を立て始めます。これは、麗子ちゃんが富田君に「好き」と言われた。そう麗子ちゃんから伝えられた時の感覚に似ている気がしました。
「だから、ツルリン君の事をもっと教えてくれないかな? ゆっくりでいいから」
「ちょっと何言ってるの。カレー温まったから、これ食べたら仕事に行かなきゃ」
その日、初めて食べるレトルトカレーの味は、母が作るカレーと大きく違った味がしました。
◇
夜。静けさが耳の奥でジーンと鳴り響き、時計の針が進む音が刻々と、夜を更けさせていきます。ツルリンにとって、夜とは一人の時間です。何時からだったか、そんな昔の事と言えるほど大層な時を過ごしている訳ではありませんが、この真夜中の時間はツルリンにとって、至極、当たり前の日常でした。
やりたい放題! この時間は、割と好きです。いや? 好きというか、良い感じです。好きにも色々種類が合って、ツルリンには少しばかり難しいと思いました。
ゲームをやっても、擦り切れる程再生したビデオテープを居間の大きなテレビで見ても、こっそりと戸棚に隠してあるお菓子を食べても、怒られることが無いのです。ツルリンは心なしか気付いている事が一つだけ有りました。
……母の眼や耳に触れなければ、躾をされることがないと。
【ツルリン良い感じ!】
ですが、ツルリンは母の言いつけ通りに22時には、床へと入ります。
【見てらんない!】
電気は消しません。何も見えぬ暗闇は、ツルリンにとって、とても恐ろしい物だったからです。闇夜に紛れお化けが襲って来るかもしれません。窓をカチ割ってゾンビが入って来るかもしません。そんな得体の知れぬ怖さが、夜の檻には潜んでいる気がしてなりませんでした。
アブラカタブラ・ホニャホニャプ~。
窓の外は、真っ黒に塗りつぶしたキャンバスの様に漆黒に包まれて、静けさだとか、恐ろしさだとかが、渦を巻いている様にも見えます。そんな渦中に、一際黒い何かが宙を漂っています。
【ヨッス。ツルリン】
真っ暗に蠢いて見えた窓の外は、神様がいました。
【そんな屁見たいなうさ晴らしで、少しは気が晴れたかい? 夜中に言い付けを守らず、ゲームをやり、テレビを見て、お菓子を食い散らかす。しかし、結局は大好きな母の言いつけを守って、22時には布団に入ってる。ツルリンは小心者なのかな?】
悪い事をすれば叩かれる。これは凄く真っ当な事なのですが、もう……痛い思いをしたくないのです。
【そんな事言って、麗子ちゃんを殺せるのかよ】
自分でも、何であんなことを言ったかは解りませんでした。麗子ちゃんの唇は、きっと真面な考えをできなくなる毒か何かが入っていたに違いません! 殺すだなんてとんでもない! それに明日も学校です。麗子ちゃんが言う時間に行ける訳が無いのです。
【真っ当な事言いながら、勃起してる最低なツルリンが神様大好き!】
もう、よく解りません。しかし、昼間の麗子ちゃんの温もりや吐息、自身の唇を艶めかしく濡らすネットリとした感覚を思い出すと、とてつもなく、絶頂に達するのです!
嗚呼、麗子ちゃん……好きだ。好き好き好き。
君を死ぬほど抱きしめて、フワフワなキスをして……それから……。
それから……?
……ツルリンには、それから先が解りませんでした。
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