第3話

「……ツルリン」


 ふと、麗子ちゃんの可愛い顔が、緩やかに歪んでいきます。微かに口角を上げ、眼の奥底からツルリンを睥睨する上目の瞳は、固く握りしめたツルリンの小さな右拳を制止させました。急いでツルリンは押さえつけていた左手を離します。


 先程まで、ツルリンの小さな体を埋め尽くしていたヘドロのような感情は、嘘みたいに消え去り、四月の風と雑踏とした通学路の喧騒が、気まずさという空気を運んできます。


 冗談です。イッツ・ジョーク。笑え。なんちゃって。どっきり大成功!

 ツルリンは身振り手振り、大袈裟にオーバーに、くねくねと体を動かして、二人の間にモヤモヤと漂う嫌な空気を振り払います。


 しかし、中々どうして、嫌な空気は飛んでいきません。


「ねぇ、ツルリン。こっち」


 唐突に、麗子ちゃんがツルリンの腕を掴むと、通学路から離れた小路へと引っ張ります。麗子ちゃんは凄い! とツルリンは思いました。嫌な空気が振り払えないのならば、そこから離れてしまえばいいのです。前を歩く麗子ちゃんは振り返りません。ただ、何処かを目指して歩くだけでした。成すがままに手を引かれ、ツルリンは歩きます。しかし、嫌な空気感は一向に拭い去れません。しつこい奴です。


 ……少し歩くと、ツルリンが見た事も無い場所に来ました。此処は、何処でしょうか。冒険ゴッコが好きなツルリンにも、此処は来た事がありません。

 狭い小路地に、高くそびえるコンクリートの塀。空に伸びた家屋屋根が日を遮り、同じくコンクリートに包まれた足元には、ジメジメとした苔が生い茂っています。何だかワクワクしてきました。


 それと同時に、麗子ちゃんは、どうして僕をこんな所に連れて来たのでしょうか。そう考える余地も無く、麗子ちゃんが振り返ると、不気味に微笑みます。


 その笑みは……湿気が満ちて、昼間にもかかわらず、鬱蒼としたこの場所の雰囲気にピッタリで、春の温かな気候には似つかわしい寒気がツルリンの背中をなぞりました。


「ふっ……ふふふふ……あはははははははははは!」


 ツルリンの心臓を、唐突に声を上げて笑った麗子ちゃんが揺らします。何かおかしい物でも見たのでしょうか。ツルリンもつられて、思わず笑っちゃいます。アハハ。


【コロセ! ヤレ! メチャクチャにしろ!】


「ねぇ、ツルリン」


【反撃しろ! 押し倒せ!】


 不気味な笑みが、恐ろしい程可憐に笑う顔が、ツルリンへと近づき、肩をがっちりと掴みます。そして、艶めかしい程の表情を浮かべた麗子ちゃんの顔がゆっくり近づいて……。


【そのままイケー! 負けんなー!】


 麗子ちゃんの息遣いが、ツルリンの顔を優しく撫でました。はて、麗子ちゃんの可愛い顔が、近すぎて見えません。それに、唇に広がる柔らかな体温が、ツルリンの口を滑らかに覆っていきます。


 これは……知っています。ええ、ツルリンは半分大人なのですから!


 ――――麗子ちゃんと! 麗子ちゃんとチューしたっ! ブッチューした!


 ツルリンは、余りにも急な出来事に、目を大きく開いてしまいます。未だ伝わる麗子ちゃんの息遣いと、唇を伝ういやらしく濡れた感触が、全ての五感をツルリンの口へと一点集中させていきました。


 そして今。その五感に外れた仲間外れの感覚は、ツルリンのオチンコを、何故かムックムクにムッズムズさせていきます。それはもう、ムッキムッキにバッキバキなのです。今は、お口とオチンコのこと以外、何も考えられません!


「キス。しちゃったね」


 しっとりと濡れた声で麗子ちゃんは言います。キス。しちゃいました。


 しかしながら、麗子ちゃんは酷く冷淡な笑みを浮かべ、その笑みは、ツルリンの心の奥底まで見透かしているかのようでした。本来、ちゅーとは好きな人にする事なのではないでしょうか。ツルリンは麗子ちゃんに尋ねました。


「ツルリンは嫌だった?」と麗子ちゃんは笑います。


 嫌だなんて、とんでもありません。静けさと鬱々しさに包まれたコンクリート塀の隙間に、ツルリンの心音だけが響いて、それはもう、その音が麗子ちゃんの耳まで届くのではないかと思う程でした。沸騰する血液が、込み上がるヘドロの様な感情が、グツグツと体内を駆巡っては、顔を熱くさせます。


「もう一回だけ同じ質問。ツルリンは……どう思う?」


 心臓の音が、喧しい程に耳の奥に響いていきます。どう思うも何も、この胸の高鳴りと込み上がってくる何かは、一向に解る気配がしません。そして硬くなった股間も、どす黒い感情も、ツルリンには、何一つ解りませんでした。


【いつまで隠しているんだよ。いつまでいい子なんだよ。ツルリン】


 隠す? 良い子? 好き? オチンコ? ブッチュー? 

 何だかもうよく解りません!


【もっと……もっと、素直になれよ。ツル岡ツルリン】


「麗子ちゃん。僕は、君を殺してみたい」


 半分、大人になったツルリンの出した答えは、単純な答えでした。あの日、始めて神様に会ったあの日。コロスという言葉は、ツルリンにとってまだ難しい言葉でした。他の命を奪う。死なせる。どれもしっくりこなかった言葉が、ようやく見つけたパズルのピースの様にカッチリとはまって行きます。殺すとは……好きという事なのでしょう。たぶん。


 君を縛り付けて、動けなくなるまで殴りつけて、その白く綺麗な肌に、青白い斑点模様を作りたい。腹を何度も蹴りつけて、息が出来なくなる様を眺めたい。華奢で可憐で、細く伸びた首を思いっきり……。


 そんな事を考えていると、酷く高騰した心が、徐々に落ち着いてくるのです。


「君、面白いね」


 麗子ちゃんはそう言うと、笑っていました。今まで、違和感を覚える程に嘘を何重にも重ねた様な笑みではありません。心の底から、瞳の奥から、麗子ちゃんは笑っていました。少なくとも、ツルリンにはそう見えたのです。


「ふふふぅーんっ。じゃっ、約束しよう。明日!」


 まるで、遊園地へ出かける約束をしたかのように、無邪気に麗子ちゃんは笑います。そんな麗子ちゃんの笑みを見ていると、不思議とツルリンの口角が上がっていきました。麗子ちゃんを殺す時……きっと、今まで見た事の無いような可愛らしい顔をするのでしょう。ツルリンは考えただけでムックムクです。


 嗚呼、麗子ちゃん。僕は君が好きだ。


「明日の朝八時。虹の橋公園で待ってるから」


 狭い小路地。コンクリートに囲まれた不思議な空間。民家と民家の隙間で、人知れず、ツルリンと麗子ちゃんは約束しました。これは二人だけ、この世で、この世界で二人だけの約束です。そんな秘密の約束を交わすと、麗子ちゃんは僕を背に、この鬱蒼とした空間を歩き出しました。それにつられて、ツルリンも赤いランドセルを追いかけます。


「あ、そうだ。ツルリン!」


 公道へ連なる小通路の手前。ちょっぴり眩しく感じる外の光は、振り返った麗子ちゃんを淡く照らすと、表情に影を作り出します。


「約束破ったら、私、ツルリンを殺した後死ぬから!」


 笑っているのか、怒っているのか、悲しんでいるのか、そんな感情の抑揚一つ掴めない声は、ツルリンの煮えたぎる感情や、こみ上げる何か、ムックムクのツルリンの頭を、一気に冷ましていきます。


「じゃ、また明日ね」


 麗子ちゃんの影掛った表情を知る間もなく、再び、光差す方へ振り返って赤いランドセルをツルリンへ向けると、何事も無かったかのように走り出していきます。


 ツルリンは、不思議でした。同じ「殺す」という言葉でも、何だか、自分の中で思っている「殺す」とは、何かが違う。重苦しく、内臓と血の気を、体の芯から全て冷やすような言葉だったからです。


 ツルリンは、何だか躾をする前の母を見たかのような感覚を、想起しました。


 好きとは、「殺す」とは、なんて恐ろしい感情なのでしょう。異世界の様な鬱蒼とした民家の隙間を抜けても、鬱々とした空気は、ツルリンの心にまとわりついたままでした。

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