第2話

 四月。温かな陽気に包まれ、桜の木々が一斉に目を覚ましては、桃源色の花びらを振らせます。冷たい冬を超え、土の下で眠っていた草木達は緑色に目を覚まし、灰色だった寂しい世界を極色彩の世界へと染め上げる季節。ツルリンは、小学四年生になりました。


「新しいクラスのお友達と、仲良くするように。それじゃっ、サヨーナラ!」


 着々と、大人の階段を踏みしめて登っています。良い感じです。大好きな母も、あっという間だと目を丸くし、ツルリンの夢いっぱいに詰まった頭を、春の温かさの様な手で優しく撫でるのです。


 何だか日に日に近くなる気がする青空を見上げていると、いつか雲まで届くんじゃないか。そんな気持ちに掻き立てられました。


「ツルリン、一緒に帰ろう?」


 ふと、そんな事を考えながら、歩く通学路。ツルリンのそろそろ年季が入り始めたランドセルを押す小さな手。麗子ちゃんです。麗子ちゃんは三年生から一緒で、とっても可愛らしいパッチリお目目をした女の子です。


 ツルリンは、麗子ちゃんの事が好きです。好きというのは、どういう事なんでしょうか。けれど、春の陽気にも引けを劣らないポカポカとした気持ちは、きっと、好きという事なんでしょう。


「今日ね、同じクラスになった富田君に、好きって言われちゃった」


 え。……いえいえ、ツルリンは動じません。何故なら今年で十歳。テレビの宣伝では、十歳は大人ですというフレーズの元、ふりかけご飯を食べる宣伝が有ります。テレビが言っているのだから大人なのでしょう。ツルリンは動じません。


「なんか、私の事がずっと好きだったんだってー。帰るときに呼ばれちゃって」


 余裕です。余裕綽々です。未だ吹けない口笛を吹こうと、精一杯に唇を尖らせて、通学路を歩きます。今日は帰ったらゲームをしよう。そしてこっそりとお菓子を食べながら、シュワシュワのジュースを飲んでやろう。


「ねぇ? 聞いてる?」


 すると急に、麗子ちゃんの大きな瞳が、ツルリンの眼を覗き込みます。その、何処か怪訝な瞳は、ツルリンの心の奥底まで見透かしている様な、深く、大きく、可愛らしい眼でした。別にいいのです。麗子ちゃんの事は好きですが、ツルリンには好きという事が、今一よく解りませんでした。


 お母さんの事は大好きです。けれど、これは何だか違う気がしました。きっと、麗子ちゃんへ好きと伝えた富田君は、好きという言葉を十分に理解した上で、好きと言ったのでしょう。抜け目のない奴です。


「ツルリンは、どう思う?」


 麗子ちゃんがツルリンの進行方向を妨げるように、真正面に立ちます。その時の麗子ちゃんは、何故か、笑っていました。零れんばかりの大きな瞳を歪に曲げ、下歯の抜けた口をにっかりと見せます。何が可笑しいのでしょうか。ツルリンは、なんだか少し、不快な気持ちが胸の周りを締め付けていく感覚がしました。


 富田君は良い人です。足も速くて、面白くて、鬼ごっこやドッチボールも強い人です。去年もバレンタインチョコを何個か貰う程、女の子達にモテモテヒャッホイな、いけ好かない野郎です。


 そんな人と可愛い麗子ちゃんは、きっとお似合いなんじゃないでしょうか。


「ツルリンは賛成なんだ?」


 麗子ちゃんは、口角を上げ、大きな目を歪ませながら……笑っていませんでした。真っ黒な瞳は緩やかな弧を描いていますが、真っすぐとツルリンを睨んでいます。


「ツルリンは、どう思ってる?」


 車の通りが多い通学路。同じく学校を終え、各々が帰路へと着く通学路。真昼間からフラフラと自転車のペダルを忙しく蹴るおじさんに、走り回る体の大きな上級生達。そんないつも通りの、代わり映えしない今日の、少し大人になった今春の騒がしさが途切れ、この世界には麗子ちゃんと自分だけしか居ないのでは無いかと思える程に静けさに包まれます。


 それはまるで、麗子ちゃんの息遣いや、心音まで聞こえてきそうな程、耳に入る周りの雑踏音が、ピッタリと止みました。


 ……アブラカタブラ・ホニャホニャプ~と唱えます。


 こういう時は神様に聞くのが一番です。きっと神様なのだから、何でも知っているはずです。この気持ちも、この静けさも。


 ……麗子ちゃんの気持ちも。


【ヨッス】


 ヨッス。神様です。側溝の溝から湧き出るように、麗子ちゃんの前に現れます。

 ツルリンが尋ねる時、音は要りません。心の中で思ったことを神様は答えてくれます。


【そうやっていつまで自分の気持ちから逃げるつもりだい、ツルリン】


 神様と言う黒い影はケラケラと笑っているかのようでした。

 今、麗子ちゃんは、何を考えているのか。ツルリンにはさっぱりプンプンです。


【この女はお前を試そうとしている心の薄汚れた売女なんだよ、ツルリン。けれども自分自身で気付いているだろう? もっと素直になれよ】


 神様の言う事は、よく解りません。試そうとしているとは、一体何のことなのでしょうか。それに、素直にとは、一体どういう事なのでしょうか。半分大人になったツルリンでも、まだまだ解らない事だらけです。


【いい子ちゃんだねツルリンは、神様反吐が出そう。やりたいことをやれよ。本当は押し倒して、メチャクチャのボコボコにしてやりたいくせに!】


 違う。そんな事ない。絶対に違う。


【いつまで取り繕ってんだっつーの、やれよ。大好きな母がやる様に、やれ!】


 仄かに熱を感じる下腹部に、よく解らない感情が沸点を迎えると、グツグツと込み上がってきます。けれどもその感情が、ヘドロの様に黒く汚く混濁した何かだという事を、ツルリンは薄々気付いていました。


「ツルリン……ちょっ……と、痛いよ……」


 自身の、自身達の背を、優に超える誰かさん家の塀に、麗子ちゃんの肩を、力強く掴んで押し付けます。簡単な事でした。最初からこうすればよかったのです。


 ああ、好きとは何て素敵な事なのでしょうか。

 母もきっと、こんな気持ちなのでしょう。


【レッツゴーツルリン! 殺れ!】


 少し顔を歪める麗子ちゃんは、先程の勝気な表情と打って変わり、目を伏して、恥じらう乙女の様な表情を浮かべています。なんと可愛らしいのでしょうか。怯えた表情も、痛みに綺麗な顔を歪める表情も……。


 嗚呼、少し噛み締め、湿り気を帯びている麗子ちゃんの唇を見ていると、

 僕は……僕は!

 

 ――君に、拳を叩きつけたい!

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