ツルリンは今日も元気です。
ぼさつやま りばお
第1話
ツルリンは、何処にでもいる様な、ごく一介の男の子です。運動も普通で、勉強も普通、友達関係や、幼稚園で送る生活も、ごく普通。普通と普通尽くしの、普通の男の子。強いて言うならば、ツルリンには、父という存在がいない事と、神様という真っ黒な存在が付きまとっている程度で、その他には、何も面白い事はありません。普通なのです。
「アブラカタブラ・ホニャホニャプ~」
と心の中で唱えれば、神様はヒョッコリと、顔を出します。それは側溝であったり、戸棚の隅であったり、窓の外であったり。神様は端っこが大好きです。そんな神様の様相は、ただ赤黒くて、黒い影を靄に、いつの日か、真白なシーツに染みた鮮血の様でした。
◇
「この……! どうしてお前は!」
白く、心地の良い風がカーテンを揺らす昼間のリビングに、母と呼ばれる女性の怒声が響いていきます。そして、ツルリンの首根っこを、母は力一杯に引っ掴むと、部屋の隅の壁へと投げるように叩きつけるのです。堅い壁がLの字に囲むこの隅。白々しい壁紙には、赤黒くなった点からまだ朱色の点線まで、様々な模様が所々不規則に付着し、薄汚れています。ちょっぴりお洒落に見えるこの模様は、全部、ツルリンから零れ出た物でした。
しかし……ツルリンはこの事を、何一つとして疑問に感じません。悪い事をすれば、痛い思いをする。この悪い事という全ての定義は、母という世界なのですから、悪い事をしたツルリンは殴られて当然なのです。蹴られて当然なのです。血が出て痛い思いをして、当然なのです。
「この! 馬鹿が! 勝手に弄りやがって」
地を揺らすような一声が響いていく度に、ツルリンの身体に強い衝撃が駆巡って行きます。母の拳はとても大きく、痛く。母の足はとても太く、とても痛いのです。
ごめんなさい。ごめんなさいと、ツルリンは泣きながら縮こまる他ありません。そもそも母が大切にしているカメラを壊した自分が悪いのです。痛い思いをして当然なのです。
そんなツルリンは、痛みの余り、何処で教わったかもわからない魔法の呪文。
「アブラカタブラ・ホニャホニャプ~」と、心内で唱えます。
いつ聞いたのか、誰から教わったのか、ただ知っている、何処かで聞いた事が有る様な言葉を勝手に並べました。
【ツルリン。ツルリン!】
そんな時でした。ふと、体の痛みと衝撃が止みます。終わったのでしょうか。
【ハローツルリン! 神様だよ】
ふと、深く閉じた目を開けてみます。不思議と、母の手足は飛んできません。それに、母親の姿さえも……。それにこの声は何処のどなたでしょうか。聞いた事のない声です。
【ヨッスヨッスオイッス! オイッスツルリン!】
ヨッス。言葉をなぞる様に返事をしてみます。きっと神様というのだから、神様なのでしょう。ところで、神様とは何をしてくれる人なのでしょうか。
【いつまでそんな意味のない暴力に耐えているんだい?】
これは意味のない事ではないし、自分が悪い事をしたのだから、躾をされて当然なんです。母の気が済めば優しく抱きしめてくれるので、反撃なんてできません。ツルリンは口を閉じたままに、心の中で答えました。
【つまらない奴め。何が躾だ。こんなのは一方的に虐待されてるって言うんだっつーの】
悪いことをしたら叩かれる。それは当たり前のことなんです!
母が言うのだから間違いはありません!
【じゃ……いっそ、神様が殺してあげようか】
黒い声が聞こえたのを最後に、何も聞こえなくなりました。何も見えない所か、何も感じません。自分は寝てしまったのでしょうか。そもそも殺すというのはどういう事なのでしょうか。コロス? なんだか可愛げのある言葉です。ころころと転がして遊ぶことでしょうか。ツルリンは何だか楽しそうだと思いました。
「おい。何笑ってんだよ」
母の声です。どうやらツルリンは目を閉じていたようで、ゆっくりと目を開くと、煙草の独特な臭いが、緩やかな風に乗って漂ってきます。これは、終わりの合図です。嗚咽でうまく呼吸が出来ませんが、痛む節々を我慢し、倒れるようにして頭を下げます。
躾、指導をしていただき、ありがとうございました。いつも決まって、母の躾はツルリンのこの言葉で締められます。この事を何も疑問に思わず、他のお友達たちも、きっと同じ事をしているのだろう。と思います。
腹部や背部。熱を持った疼痛を、日曜日の長閑な風が優しく撫でます。溢れ出る嗚咽が息を引きつらせていると、母の大きな体がツルリンを柔らかく包み込みました。何故か決まって、母は躾の後に「ごめんね」とツルリンの頬を撫でるのです。
【意味わからん!】
――――ツルリンは、母の事が大好きです。
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