山頂近く、木々に囲まれた開けた空間に、フジバカマの群生地がある。この時期には淡い桃色の花を咲かせるはずのそれは、いま、濃い緑の葉をしげらせているだけだ。


 夏子は毎年、夏から夏の終わりにかけ、大荷物を背負ってここへやってくる。


 『アサギ』に会いに。


 ぎらりと照りつける太陽の下、夏子は作業に取り掛かる。地面に下ろしたリュックサックから、金属の棒をばらばらと取り出し、組み立てていく。ほどなく、簡易的な寝台ができあがった。それから、金属ケースを取り出し、注射器を確認。数種類の薬品を脇に並べる。毎年繰り返してきた作業だ。夏子の手際てぎわはよかった。


 そのとき、空から一匹のちょうが夏子を目指すように舞い降りてきた。


 アサギマダラ。


 緑がかった藍色あいいろを、黒と茶がふちどるはね。透けるような藍色は、空の青さを彷彿ほうふつとさせる。悠然ゆうぜんと羽ばたく姿は、まるで空の化身けしんのようであると、夏子は思う。


 日本で、唯一の“渡り蝶”であるアサギマダラは、春から夏にかけて標高1000~2000メートルの涼しい高原で過ごし、寒くなる前に海を渡り、台湾へと飛んでいく。翅を広げると十センチほどのサイズになる大きな翅を風に乗せ、実に、2000キロを旅する。


 アサギマダラの姿を確認した夏子は、手早く白衣にそでを通した。


 地面に触れる直前、アサギマダラの姿が変化した。美しい翅が巨大化し、体の部分が青年に変わる。昆虫然とした真っ黒な目が、夏子を射抜いた。


「アサギ」

「夏子さん」


 短い挨拶の中には、少しの熱と切なさがにじむ。先に視線を外したのは夏子だ。その瞳にはもう、少し前までの甘さはない。アサギを寝台に寝かせ、彼らは研究者と研究対象者の事務的な関係へと移行する。


 アサギの細い腕に針を刺し、点滴に繋ぐ。反対側の腕に繋がれたいくつかの管は、四角い機械に繋がれ、その機械から出た管は、夏子が操作するノートパソコンに繋がっている。


「投薬開始から3年で、翅が20パーセントも大きくなってる。順調よ」


 夏子は実験の成果を感じ、顔をほころばせる。しかし、それを聞くアサギの表情は硬かった。


「この数日で、三分の一の仲間が死んだ」


 夏子は息を止め、アサギを見た。宙を睨む彼の目は、とてつもなく空虚だった。


「一刻も早く、繁殖はんしょくしないと。なのに、フジバカマが花を咲かせない。暑すぎるんだ」


 アサギマダラのオスは、フジバカマの花の蜜を吸うことで、初めて繁殖に必要なフェロモンを出すことができる。花が咲かないうちは、だから繁殖できない。


 フジバカマの花を咲かせるためには、気温を下げる必要があるが、気温操作など、夏子にはできない。

 夏子にできることは、薬品を使い、アサギマダラの体をより強靭きょうじんなものへと変える手伝いをする、ただそれだけだ。過酷な環境でも、彼らがこの先もずっと命を繋いでいけるように。


 同情は何の役にも立たないし、なげいていても始まらない。自分の、できることをするしかない。


 夏子は薬品を調合し、注射器に入れる。アサギの細腕に、次々に注射する。


「これは、翅を軽量化する進化に役立つ薬よ。体が軽くなれば、もっと長く飛んでいられるようになるわ。それから、これは……」


 どぎつい色をした液体が入ったビーカーを、アサギに手渡す。

 翅の巨大化、フジバカマを必要としない繁殖システム、紫外線散乱剤の鱗粉りんぷんへの組み込み等、遺伝子操作のための薬品たち。


「飲んで。生き残るためよ」


 それまで、大人しく夏子の指示に従っていたアサギの手が、いくつ目かのビーカーを前にして止まった。夏子の説明に、引っ掛かりを覚えたのだ。

 これを飲むと、翅の藍色の部分が、少しだけ濃く変わるかもしれない。

 夏子はそう言った。


「色の変化は、少しだけよ」


 穏やかだったアサギが、一瞬の激情に駆られた。夏子の腕を払い、ビーカーを地面に叩きつける。ガラスこそ割れなかったものの、黒に近い紺色こんいろの液体が、緑の上に血のように飛び散った。


 ―――ねぇ、夏子さん


「ぼくらがぼくらでなくなってまで、生き残る意味があるのかな?」


 とても静かな問いだった。アサギの表情からあきらめの感情を読み取り、夏子は怒りに震えた。


「政府は研究者に耳を貸さないわ。このまま成り行きにまかせて何もしなければ、あなたたちは絶滅してしまうのよ」


「地球がぼくらを殺すというなら、受け入れるのが筋だよ。自然淘汰しぜんとうたというでしょう? 生物は何万年も、そのシステムに身をゆだねてきた。だから、ぼくらも――」


「あなたたちは、人間のつけを払って、代わりに犠牲になるのよ。それでも黙って、理不尽に死ぬというの?」


 アサギは悲しく微笑んだ。それから、腕に繋がったいくつもの管の針を引き抜いていく。


「何してるの。やめて、アサギ。やめて!」


 夏子が止めるも、アサギは全ての管を外し終え、寝台から離れてしまった。


「死ぬなんて、絶対に許さないわ!」


 真っ赤になってえる夏子を、アサギはあわれむように見つめる。


「うん。生きる努力はするよ。でも、もう、君には頼らない」


 アサギは大きく翅を広げ、宙へと体を浮かせた。


「どこに行くの」


 夏子はすがるように、アサギを見上げる。悲しい予感がして、胸が締め付けられるように苦しい。あえぐように息を吸うと、むんとした熱気が肺をがした。


「ここを離れる」


 アサギは台湾への旅立ちを決意していた。予定より、ひと月以上も早い。三分の一の仲間が死に、繁殖で数が増えたわけでもない。何の目的も果たせず、次の地へと向かう。そこが楽園かどうかも、定かではないのに。


「それでも、ここにはいられない。フジバカマは、きっともう、咲かない。ここは暑すぎる。残り三分の二の仲間たちとどうにか生き残るために、別の地で繁殖に備えることにするよ」


 さよならだ、夏子さん。


「行かないで」

 ただの蝶の姿へと戻ったアサギには、人間の言葉が通じない。だから、夏子の叫びは、アサギには届かない。

「愛してるの。生きてほしいの。あなたに」


 どこに隠れていたのか。アサギを追うように、無数の蝶が空中へと舞い上がる。その全てがアサギマダラだ。三分の一が死んだとは思えないほど、その数は多く見えた。

 無数の蝶の翅が、夏子の顔に影を落とす。涙に濡れた夏子の瞳は、必死にアサギを探している。


 翅の中央、緑がかった藍色の部分が、陽光を受けて空色に輝く。ふちどる黒と茶が、その青をより鮮明にする。美しい。しかし、同時に、アサギマダラの派手な色は、見る者に不安感を覚えさせる。彼らは天敵に対処するため、毒草の蜜を吸い、その身を毒に染める。派手な色は、警告なのだ。死にたくなければ近づくな。


 気高く、美しく、強い蝶。


 彼らは力強く飛んでいるように見えた。きっと無事に、台湾までたどり着ける。美しい景色に見とれるだけの余裕が、このときの夏子にはまだあった。しかし、次の瞬間、


 一匹が、翅の羽ばたきをやめ、地へと落ちていく。それが合図だった。


 活動を止めた蝶が、次々に落下していく。


 それは落ち葉のように、ひらひらと舞いながら落ちていく。とす、と小さな音を立て、夏子の靴の先に一匹の蝶が落ちる。


 ひっ、と夏子は短い悲鳴を上げた。 

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