第3章

第1話

 夜の空を獣が駆ける。

 白く光輝を放つそれは巨大な犬。魔力を灯した4つ足がしっかりと虚空を踏みしめていく。

 

 その神々しさたるや、主神ゼウスが遣わしたと言われても信じるほどだ。

 実際、この立派な犬は神々に等しい太古のエルフから授かったというのだから、中らずといえども遠からずといったところだろう。


 そんな由緒正しき神獣に私たちはそりを牽かせていた。

 しかも、屍体でできた橇だ。

 虚ろな目で抱き合う肉体を基礎として、釘代わりに指を、綱代わりにはらわたを用いたおどろおどろし代物だ。

 見た目さえ気にしなければ頑丈で風も通さないため最高の乗り物だ。見た目さえ気にしなければだが。



「ザクロ。可能ならば到着後にこの者を弔ってもよいか?」


「ん? う、うん。いいよ、特に目立った性能もない屍体だし」



 勝手に墓場から起こされたというのに哀れな……。



「あんたさあ、死者に対する畏敬の念ってものはないわけ?」



 何重にも布を巻いてエジプトのミイラのようになったアイナが口を挟む。死に際なわけでなく、ふざけているわけでもなく、単純に寒いのだ。

 遥か上空にあるオリュンポスにある神々の屋敷は温かく、年中過ごしやすい環境だと聞くが、ここはそうもいかないようだ。

 偉大な詩人ホメロスが鉄と例えたように、黒く冷たい空気が肌を刺してくる。

 私の火照った傷口にはちょうど良いが、筋肉の少ない彼女らにとっては堪える寒さだろう。3馬鹿たちに至っては三つ首の番犬ケルベロスのようになっている。



「あ、あるよ。使わせてくれてありがとうって、か、感謝してる」


「それは畏敬なのかしら……」



 せめて魂だけでも安らかにしてほしいものだ。

 ふいと頭を上げ、神々が座す星空に望む。



「いや、無意味だな」



 そこには神はなく、知らない夜空が広がっていた。

 託す願いは届かぬだろうし、神が助けることもない。


 実際、道を知らぬ私を神々は助けてくださらないのだ。

 燦然と輝く7姉妹プレアデスを見つけ、弓弾く巨人オリオン座を辿り、大海オケアノスに沈まぬ大熊座アルクトスを見つければそれが北を示す。あとは右手が東になり、左手が西、後ろが南となる。

 古くから方角を知るために伝えれる教えだ。


 しかし、この空の下では今どこを飛びどちらに向かっているかも定かではない。

 空は謎に包まれ、眼下は深い闇に包まれている。



「屍体の心配より自分の心配を――とならぬのはお前のおかげだな」


「Wou!」


 猟犬は迷わず夜を駆ける。

 ザクロが言うには、この王国の秘宝たる猟犬は、御者もいないのに行先を願うだけで目的地に進むらしい。まるで帰還者オデュッセウスを運んだファイエケス人の船のようだ。

 


「そうなると、持ち主であるあの美しき第3王女イザドラは、ナウシカか。道理で見惚れるわけだ」


 

 貞淑であり女神のごとき姫ナウシカと同等なら私が一目ぼれしたのも頷ける。



「ごめん、風が強くて聞こえなかったんだけど何か言った?」


「何でもない。それよりアイナ、冒険者組合の元受付嬢としてオークの国に棲息する魔物など知っておらぬか?」


「オークの国まで冒険する人は稀だからね。ほとんどないと言ってもいいわ」


「わずかでも良い。特に危険なものだけでもわかれば対処しやすいだろう」


「特に危険と言われても……うーん」



 頭を捻り考えを巡らすアイナ。これはしばらく思い出さないだろう。そう思い、私は屍体を指でなぞるザクロに話しかけた。



「ザクロは何か知らぬか?」


「わ、私が行った時は特に危険な魔物はいなかったな」


「ふむ……では原住民にだけ気をつければよいか」



 オークは屈強な戦士だ。魔力を使えない種族ながらその筋力はすさまじく、鍛え上げたスパルタの肉すら傷つける。

 住民全員がそうであるとは限らないが、数だけ見ればピエタに訪れた遠征隊より多くいるのは間違いないので、気をつけるに越したことはないだろう。



「そうだ、オークの国限定ってわけじゃないけど北の大地にはアレがいるんだった」


「アレ?」


「アレっていったらアレよ。口にするのも恐ろしい巨大な魔物」


「ふむ」



 口にするにも恐ろしいとは大した魔物だ。

 余程特殊な能力をもっているのだろう。

 私は顎に手を当て頭の中でいくつかの怪物を思い浮かべる。

 


「邪視で全てを石に変える蛇神の女怪ゴルゴーンか」


「何それ?」


「では、宇宙より巨大で神々を脅かす怪物の王テュポーンか」


「だから何それ」


「テュポーンでもないだと。では……そうか分かった! エケトス王だな!」


「いやほんとに誰よそれ!?」


「エケトス王を知らぬのか。幼少のころ、年長組によく言われたものだ。言うことの聞かない者はエケトス王のもとに送ってやるぞ、と。王のもとに送られた人間は誰であろうと耳と鼻と陰部をもがれ、犬に食わされるぞと」


「あんたのところのおとぎ話おどろおどろしすぎない!? もうちょっとこうさらわれるくらいにしときなさいよ……って、そうじゃなくて、言うにも恐ろしいっていったら魔物たちの頂点――ドラゴンでしょ」


「ほう、ドラゴン」



 ドラゴン。これほど多くの英雄が挑んだ怪物もおるまい。大英雄ヘラクレスはもちろん、テーバイの創始者カドモスアルゴー船船長イアソンなど枚挙にいとまがない。イアソンがドラゴンに挑んだかどうかについては議論の余地があるが。

 

 私が英雄たちに思いをはせている間にも、アイナのドラゴンの説明は続く。



「空を自由に飛び回り、縦横無尽に炎を吐くうえ、魔力を弾く硬い鱗に覆われた魔物。あんなのどうやって倒せって感じよね。あっちは攻撃の届かない安全圏にいるのに、こっちには致死性の攻撃してくるんだから」


「なんとこの国のドラゴンは火を吐くのか」


「氷雪吐いたり、猛毒吐いたり、珍しいのだと雷吐くわよ」


「なるほど、討伐のしがいがありそうだ」


「え、噓でしょ? この会話の流れで討伐するなんて話になる? 普通それじゃあ避けていこうねってならない?」


「強いのだろう? 倒さなくてどうする」


「あーそういう奴よねあんた……」



 彼女の口元から大きな白い靄が漏れる。それは彼女がどれだけ強くため息を吐いたか雄弁に語ってくれた。

 そこまで落胆されるようなことを言っただろうか?



「ど、ドラゴンで思い出した。そういえばオークの国にはあのさ、三魔竜の1匹が棲んでいる」


「サンマ竜?」


「……噓でしょ?」



 ザクロの言葉にアイナは飛び出さんばかりに眼を開き、大口を開けて呆けている。少なくとも淑女がしてよい表情ではない。眼球や口内が凍り付こうと関係なくだ。



「ザクロ、そのサンマ竜とはなんだ?」


「か、かつて古のエルフが全種族の中で最強だった時代に、突然現れた災害。不死にして絶大な力を持ち、い、古のエルフの浮遊大陸を落とし、地上の8割を焼いた3匹の竜。そのうちの1匹が今もオークの国に棲んでいる」


「古のエルフが、たった3匹にやられたのか!?」


 

 この世界に訪れてからというものの、古のエルフの恐ろしいまでに高い技術力を見せつけられている。人心を操る腕輪にはじまり、空まで届く不壊の要塞、今私たちを運ぶ自由に移動できる犬橇もしかり、鍛冶の神ヘファイストスの作品にもせまるものばかりだ。


 そんな神のごとき力をもつ彼らが滅ぼされたのだから、その3匹の竜はオリュンポスにおける怪物の王テュポーンかそれ以上の災厄だったはずだ。



「か、帰るぅ! わたしピエタに帰るぅ!!」


「落ち着け、帰ったところで借金取に追われるだけだぞ」


「命の危険と天秤にかけたらましよ!」



 返済不能から奴隷にされる人生がましなのかと思うが、もしかしたらピエタは奴隷制のない国なのかもしれない。考えてみれば、まだ一目で奴隷とわかる身分にあったことがないな。



「アイナよ。もうほとんどオークの国に入っているし、戻るのは悪手だろう。それにそれほどの怪物が棲んでいるのにオークたちは滅んでいないのだ。きちんと棲み分けできているのではないのか?」



 互いの領域に入らなければ野生といえども脅威とならない。獣に襲われるのは、彼らの領域に踏み入こんだ時か、神を怒らせた時だけだ。



「それは、そうかもしれないけど……」


「私も今や隻腕。そう気楽に竜の巣に向かったりせぬよ」



 やるならば十全の準備をして。神に供物を捧げてからでなければ勝てないだろうしな。



「う、うん。そうよね。いくらあんたでも片腕のまま竜に挑んだりしないわよね」


「もちろんだ」



 義手を手に入れるまで盾が構えられないからな。



「よかった。それならオークの国に向かいましょう。そこで生活の糧を手に入れるのよ!」


「うむ、その通りだ」



 完全武装して竜を殺すためにもな。



「へ、ヘラクレイオス。悪い顔してない?」


「心外だなザクロ。私はいたって平常の顔だろう」


 

 私がクレタ人のように嘘を並べているとでも思っているとしたら心外だ。私はスパルタ人らしく言葉少なくしているだけだ。

 決して騙すつもりはない。



「そんなことより見よザクロ。右手に鳥が羽ばたいている、これは神々が私たちの願いが叶うようにと遣わしてくれた吉兆に違いない」



 なんたる奇跡か。

 星空におらずとも、神は私を見捨てていなかった。天空神ゼウスが私の旅が成就するように、吉兆となる右手に使いである鳥を飛ばすとは。

 私は見事な翼を広げる鳥を指さし、無邪気に喜んだ。

 

 そんな私に対してザクロのとった反応は、吃驚きっきょう



「え、と、鳥?」


「うむ、鳥だ。水で割った葡萄酒よりなお赤く、不毛な海よりなお青い羽根の入り混じった翼に風を切らせて飛ぶ、大きな鳥だ」


「お、おかしい」


「何がだ?」


「ぷ、プライム王国の秘宝『エルフの犬橇』が走る高度は12000メートル。それと同じ高さならともかく、それよりう、上を飛ぶ鳥なんていないはず」


「メートルと言われてもわからん……それは何プースだ?」


「と、ともかくかなり高くて鳥なんか飛べるわけがない。え、餌もない空にわざわざ昇る意味もない――もしかして」



 ザクロはその澱んだ眼をかっと見開き、その極彩色の鳥を見た。

 そして、呆然としたままつぶやく。



「さ、三魔竜の1匹、鶏竜けいりゅうシズ……」


「けいりゅう? いや、それより今サンマ竜の1匹と――」


「きゅ、急速旋回‼ 急いで、あ、あれは音より速い!」



 ザクロの緊張が伝わったのか、白き猟犬はすばやく進路方向を変える。

 しかし、わかってしまった。

 アレはもう私たちを補足している。


 まだ遠く、羽の色しかわからないはずなのに、間違いなく目が合ったのだ。



 最初は、天空神ゼウスの雷火が落ちたのかと思った。

 音もないのに全身が痺れたのはその雷撃によるものだと思った。

 

 しかし、それは違う。


 巨大な物体が、ありえない速度でただ落ちた衝撃だ。

 私が魔力を漲らせて放った蹴りよりも、雷と共に振るった剣撃よりもなお早く。


 次いで、四肢を千切らんばかりの衝撃が全身を打つ。



「くぅおぉおおおおぉおおおおおおお!!!」



 皆を背にしてはいるが、盾無き今どれだけの意味があるのか。

 肌は裂け、血は沸き立ち、内臓は跳ねる。


 ああ、なるほど。

 これが神を殺す一撃なのだな、とすでに遥か下方で舞う羽根を見て得心していた。



「ザクロ、アイナ、犬、3馬鹿ども! 私の下に集まれ、着地するぞ!」



 私たちは夜の帳に覆われて底の見えない闇の世界エレボスへと、真っ逆さまに落ちていった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スパルタ人、異世界へ。 @syuumo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ