第22話


 冷たい水が顔面にかかる。

 手でぬぐおうにも、起き上がろうにも、身体が痺れて動かない。結果、私はひどくむせることになった。



「がふっごふっごほっ!」



 水は無慈悲に気管に流れ込み、私はその度に咳き込む。

 拷問のような――いや、この程度の苦行なら覚えがある。

 スパルタの訓練場、力尽き果て気絶する度に教官から水をぶっかけられて起こされたものだ。



「無様だな、ヘラクレイオス」



 全て吐き出し終えたところで、上から声が掛けられる。



「げほっげほ……誰だ」



 低い男の声だ。ウルカスのものとは異なるし、同船したオリゼ商会のものとも違う。もちろん元山賊の3馬鹿のものでもない。



「誰、か。なるほど、長い旅で誇りだけでなく私のことも忘れたと見える」


「私が誇りを忘れただと?」


 

 私はスパルタの誇りのために戦い、そして死んだ。

 死んだ後もこうして誇りを取り戻そうと慣れない旅までしている。

 その私が誇りを忘れた?


 ぷつりと頭の血管が切れると、不思議と先ほどまで全く動かなくなっていた身体に自由が戻る。

 そして、私は頭で跳ね起き、その勢いのまま拳を打ち出した。

 手打ちのため威力こそ弱いが、最速で相手に届く。

 弱いと言ってもスパルタの筋肉。無礼な言葉を吐く口を砕くことくらいできる。


 しかし、拳は片手でしっかりと受け止められていた。



「良い拳だ。鍛錬だけは続けていたようだな」


「!!! な、貴方は……」


 

 私は目を疑った。

 

 まなじりは狼のように鋭く、血をすすり赤みを帯びた髭は冥府の焔。齢60にあっても衰えることなく、その顔立ちは精悍だった。

 加えて、数多の戦場を超えてなお傷ひとつ見当たらない肌には、しっかりと筋肉が浮き上がり、油も塗っていないのに濃い陰影ができている。その均整の取れた肉体は、全ギリシア中の彫刻職人が嫉妬した。


 300人で100万人を相手取った名将。

 スパルタにこの者ありと、世界に知らしめた英雄。

 我らが偉大なる王。


 レオニダス王がそこにいた。


 私はとっさに両ひざ折り、拳をついて頭を下げる。

 


「王よ! 再びお会いできるとは、これほど嬉しいことはありません!」


「よせ、ヘラクレイオス。頭を上げるのだ」


「は!」



 即座に立ち上がり、背筋を伸ばし直立不動の姿勢をとる。

 王は満足げに頷くと、やおらに話し始めた。



「最初に言っておくが、これはオネイロスだ」


「夢……ですか」


「そう、私がいるからといってここは冥界でもないし、楽園エリュシオンでもない」


「しかし、神々は私に伝えるべきことがあると貴方をお送りになられたのですよね?」



 夢とは重要な兆しであり、それを読み解く占い師はギリシア中に存在した。

 また、夢でアスクレピオスが治療を行えば、目覚めた時には患部が完治することは有名だ。


 つまり夢とは神に最も近づいている状態であり、一種の託宣であった。

 


「その通りだ。理解が早いな」


「は!」


「では、殴り合おうか」


「は?」



 王はおもむろに指を鳴らす。

 伝えるべきことはどこにいったのだろう。



「どうしたヘラクレイオス。私が懇切丁寧に語って教えるとでも思ったのか?」


「いえ……いえ、はい。夢であるならあるいはと」


「スパルタ人は多くを口で語らない。雄弁なのは拳と筋肉のみよ」



 確かに、考えてみればスパルタに住んでいた時にした会話など指で数えられる程度だ。この国で意思疎通するために会話しなければいけないのですっかり忘れていたが、元来人間は拳で語らうものだったな。



「納得したようでなによりだ」


 

 レオニダス王は頷き――



「だが、反応が遅い」



 私の頬が王の拳の形に歪んだ。



「っが!!」



 下顎骨骨折。左臼歯全骨折。

 全く予備動作のない直突きに対し、私は拳を構える暇すらなく、手ひどい痛撃を受けた。


 砕けた歯と血が宙を舞う。

 しかし、倒れぬ。頭の先から爪の端まで鍛えた肉体は衝撃に耐え抜き、たしかに私を支えきった。


 

「良い体幹だ。だが、殴られているばかりだと対話にならんぞ」



 返答の代わりに放つ右。

 足の爪先、足首、膝、腰、肩、肘、手首と回転を加えた一撃の殺傷能力は、受け止められた最初の手打ちと比にならない、渾身の殴打だ。

 いくらレオニダス王であろうと、無傷ではいられないだろう。


 私の拳が王の左頬を撃ち抜く。

 肉が肉を撃つ湿った音。

 確かな手ごたえ。頬肉が波打ち、歯を砕いた感触を感じる。


 だが、レオニダス王は何の痛痒もない表情をしていた。

 無傷。私の渾身は、王に一切の痛痒をもたらさなかった。

 波打ったのは私の拳の皮。砕けたのは私の指の骨。

 

 王の堅牢な首の筋肉が、私の小手先の一撃を真っ向から受け止め、はじき返したのだ。



「私を前にして、驚いている余裕があるのか?」



 はっと腕を交差させて防御をするが、王はそのことごとくを凌駕する。

 守ったはずの腕を折るに留まらず、胸骨を粉砕し、肋骨を全て折り、、両肺を潰した。


 息すらままならない私にさらなる追撃が加えられる。


 金的。

 もろだしの臓器がスパルタの筋力によって蹴り上げられた。



「~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!」



 悲鳴をあげようにも、肺は機能不全だ。 

 声で痛みを逃すことができず、私はその場に倒れ込み、情けなくもがき苦しむことしかできなかった。



「とても誇りあるスパルタ人の姿ではないな」



 レオニダス王はため息をつき、私の顔を覗き込むように腰をおろす。

 そして、丸めた中指を弾き私の鼻を叩いた。

 鼻骨骨折。鼻の穴から血がとめどなく溢れ、さらに呼吸を苦しくする。


 夢とは思えない苦痛が全身をさいなみ、私の眼からはスパルタ人らしくない涙がこぼれていた。



「さて、私としてはこれで理解しろと言いたいところだが――」



 レオニダス王は見苦しい私を一瞥する。

 その眼に宿るのは、紛れもない失望だった。

 王は呆れた感情を隠しもせずに、言葉を続ける。



「さっぱりわからないようだな。では問おう、ヘラクレイオス。なぜ私と正面から戦った?」



 激痛の中、私は考える。

 なぜ? スパルタ人は正々堂々戦う。たとえそれが王であっても。



「私に勝てると思っていたのか?」



 スパルタ人は決して退かない。勝てる勝てないで敵を判断しない。挑まれたなら全力で応戦するのみ。



「だからお前は弱いのだ」



 弱い? 私が?



熱き門テルモピュライを思い出せ」



 熱き門テルモピュライの戦い。忘れることなどできもしない、我が栄光ある死の舞台。

 無限に湧き続ける兵隊と、不死の騎兵団。冥府から這い上がってきた怪物に、古代の血を引く巨人。機械仕掛けの殺戮兵器に、東方の怪しげな魔術。

 それに立ち向かったのは、レオニダス王とその供回り300人。


 壮絶な戦いだった。

 数多の屍が足の踏み場をなくし、夥しい血がエーゲ海を赤く染めた。


 あの戦いと私の弱さ、何が関係あるというのか。

 


「なぜ我らは寡兵で対抗できた」


 

 それは我らが常在戦場で鍛え続け、不退転の覚悟で臨んだからで――

 


「それがお前の歪みであり、弱さだ」



 ぴしゃりと言い放つレオニダス王。


 気付けば王の周りには多くの人影があった。


 その数299人。

 私を除いた、熱き門テルモピュライの戦士たち。



「ヘラクレイオス。考えよ、考え続けよ。そして強くなれ、誰よりも。最強スパルタとなるのだ」



 わからない。王の伝えたいことがわからない。

 生まれてから死ぬまでひたすらに王命に従ってきた。

 それでも、この国に来てからは自分で考えるようにもなった。自分なりの答えを見つけたはずだった。


 それが王に否定される。

 私はどうすればよい。



「その答えは自分で見つけなればならない。それが私たちが血を流して勝ち取った自由なのだから」


 

 王と戦友たちは踵を返して、私に背を向ける。

 待て、待ってください。私もそっちに連れて行ってください、王よ。

 そちらでなら、余計なことを考えなくても良いスパルタの一兵卒としてなら、私は最強スパルタの一端であれるのに――



大英雄ヘラクレスの名をあやかった男が、そんな顔をするな」



 レオニダス王だけが振り返り、笑いかけた。



「全てを終えたなら、盾と共に帰ってこい」

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