第12話

 海面にじわりと赤い染みが広がる。

 恐らく、受付嬢はもう助からないだろう。



 「……食われたか」


 

 無理やり依頼を受けさせられたり、逆恨みで喧嘩を売られたり、彼女との関係は良好とは言えなかった。しかし、先ほどまで普通に話していた者が唐突な死を迎えたのに同情しないほど、薄情に育った覚えはなかった。


 突然死の神アポロンに射抜かれた者に手向けを贈るのも、ギリシア人の義務だ。



「せめて仇ぐらいはとってやろう」


「生きてるわよ!」



 しぶとい。



「3馬鹿といい、この国の人間の生存能力はずば抜けているな」


 

 もしかしたら戦士を見つけて密集陣形ファランクスを築くより、スパルタ式教育で戦士を生み出した方が手っ取り早いかもしれない。



「思案してないで助けなさいよ! ちょっと、聞いてる!?」


「人の話を聞かずに襲い掛かってきた人間の発言とは思えんな……まあ良い、目の前で死なれるのも寝覚めが悪いからな」


 

 船に立てかけられている銛を抜く。



「借りるぞ」


「お、おい! あんた何する気だ」



 水夫の疑念に答えず、私は銛の形状を確認する。


 小型の魚を捕るための三叉銛ではなく、鯨さえ一突きにする投擲槍のような巨大な銛だ。握った時に指が届かないほど、柄は太く武骨な作りである。

 槍と大きく異なるのは穂先に返しがついているところだ。一度刺されば容易には抜けず、海中では我が物顔の魚もいずれは弱り、息絶えるだろう。


 まあ、スパルタ市民の漁に魚弱らせるという概念はないが。

 釣り竿や投げ網を使うのは周辺住民ペリオイコイの漁師のみ。純粋なスパルタ市民が魚を獲るなら一撃必殺だ。



「場所は……この辺りが良いか」



 位置を定め腰を低く落とす。

 投擲に必要なのは何より下半身。射出の威力を決めるのは太い脚と言っても過言ではない。


 その威力をさらに倍増させるために、ぎりぎりと捻る腰。

 獣の靭帯をり合わせた弓の弦より、スパルタの筋肉は柔軟で強靭である。

 

 そして最後に腕だ。脚と腰が十全に働けば、腕に力はいらない。肩、肘、手首、指、全ての関節を稼働させるためには、むしろ筋肉の緊張は邪魔になる。


 ――と考えるのは素人である。どのような戦場でも生き残れるように鍛えられたスパルタの筋肉が、邪魔になることがあるうるだろうか。いや、ない。

 血管を浮かばせ、二の腕のこぶが膨れ上がるほど力んだとしても、関節の動きが阻害されることはない。


 引き絞られた全身の筋肉は、どんどんと内へ力をため込む。今か今かとはやる筋肉をなだめながら見据えるのは、海面から突き出す背ビレ。

 不規則な動きを見越す必要はない。

 スパルタ人が投擲するならば、射出と直撃に時間差はないのだから。



海界の王ポセイドンよ、ご照覧あれ」



 呼気とともに、ため込んでいた力を解放する。

 銛は、円錐形の雲を生じさせて、真っすぐ飛んでいく。


 穿孔。



「命中確認」



 サメが海面で爆散した。


 水しぶきの代わりに降り注ぐ血と肉と臓腑の雨を確認しながら、私は1人ごちる。



「ふむ、体調不良なれど戦闘に支障なし」


「なにやっちゃってくれてんの!?」



 顔面血まみれにしながら受付嬢が吠えた。



「何とは、お前を助けるためにサメを殺しただけだが」


「馬鹿、阿呆! 血の匂いを漂わせたら別のサメがくるに決まってるでしょ」


「あー……なるほど」


 

 確かにその通りだ。野生の獣は匂いに敏感で、傷を負えばどこまでも執念深く追いかけてくる。海で血は広がっていくので尚更だろう。

 

 現に受付嬢の周りには、すでに多数の魚影が確認されていた。背ビレが見えるだけでも20匹はいる。



「ひっ! もうこんなに寄ってきてる! 助けて、早く助けて!」


「注文の多い要救助者だ」



 さて、助けると言っても方法が思いつかない。

 考えてみればスパルタ式教育アゴゲで仲間を守る手段は学んだが、救助する手段は学ばなかったな。

 戦場以外で窮地に陥るのは、スパルタ不十分の証拠である。そもそも、そんな軟弱者は生存してないのだ。救助の方法を覚えるはずもなかった。


 やむなく近くの水夫に訊ねる。



「水夫、こういった時どうやって助けるんだ?」


「どうって、普通は自由走行フリーランニングを使って海面を歩いて引き上げるんだが……ここまでサメがでいたら簡単に近づけねえな」


「なるほど、戦技はこういう状況でも使えるのか」


「普通はサメを爆散させる前に気付くもんだがな……」


「過ぎたことを気にしても仕方あるまい、大事なの今だ」


「そうなんだけど、やった本人が言うと納得いかねえ」


 

 周りを見渡すが誰も海に飛ぶ者はいない。怖気づいているわけではないだろう、むしろ当然の反応だ。

 受付嬢は密航者。命がけで救う義務もなければ、価値もない。


 しかし、スパルタの誇りを示すと決断した手前、私は行かねばならないだろう。一度助けると決めたなら、最後までやり遂げるのがスパルタの矜持だ。


 小袋から魔石を取り出して、口に含む。



「あんた、今度は何やって――」


「あの女を引っ張り上げてくる」



 私は船の甲板から勢いよく海に跳び込んだ。



自由走行フリーランニング


 

 着水と同時に魔石を噛み砕き、戦技を発動。すると何ということだろうか、沈むはずの足はしっかりと海面を踏みしめ、直立することができたではないか。


 足を高速で入れ替える以外の方法で水上に立てるというのは感動する。

 エウロタス川で沈まずに走る特訓はなんだったのか。最低20ペキュス約9メートル水面を駆けるまで眠ることすら許されない、特訓は……。


 ……よそう。あの日々のおかげで今の私がある。それで良いのだ。


 ともかく今は自由走行の使い勝手である。



「これは良い。ペルシアの艦隊も密集陣形ファランクスで攻略できそうだ」



 何より、船と違って揺れないのが良い。

 不思議なことに波浪に伴って身体が上下することはなく、膝下を濡らしながら不動を維持している。まるで浜辺で佇んでいる気分だ。


 恐らく接している面に立っているわけではなく、不可視の踏み台に乗っている状態なのだろう。



「これ以上は後で考えるか。今は目前の脅威を排除することに全力を尽くそう」


 

 私が考えているうちに、徐々に近づいていたようだ。

 背ビレはもはや、目前まで迫っている。



「来い」



 飛沫を上げて飛び出す巨大ザメ。


 開かれた顎が、正面の視界を塞いだ。

 眼に入るのは、内臓色の口腔内と吸い込まれるような暗い喉奥。もしこれがハデスにそのまま通じる洞窟と言われても信じてしまうほど、根源的な恐怖を覚えた。


 暗黒に目を奪われているうちに、生え揃った牙が皮膚に迫る。

 サメの牙は1本いっぽんが鋭いだけでなく、のこぎり状の突起が生えているため、触れればそれだけで肌は裂け、おびただしい出血するだろう。

 それが矢衾のごとく襲い来るのは何の悪夢か。


 被捕食者エサが最後に見る光景は絶望であると、本能に訴えかけてくる。



「だが、相手が悪かったな」


 

 最強の戦士になることを義務付けられたスパルタ人を餌にできるのは、戦死後に舞い降りるアポロンの使いワタリガラスのみ。



「これより、漁猟スパルタを開始する」



 肉が裂かれる音。

 海中に消えたサメは、口内の血の味に勝利を確信したのか、激しく尾ビレを振って泳ぐ。


 そして、今度はじっくりと捕食しようと方向転換したまさにその時――サメは頭から真っ二つに裂けた。


 もがいてもすでに遅い。分かたれた身体は戻ることなく、やがて海面には両断されたサメの屍体がぷかりと浮かぶ。口から自らの血をたっぷりと垂れ流して。


 私は魔剣ヘスティオンに滴る血を振るい、背中に担ぎ直した。


 

「どちらが狩る側か理解したか?」

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