第11話
水平線から顔を出す太陽。
昨夜の暗雲は嘘のように掻き消えて、空が美しく染められていく。
ギリシアの全ての神殿にも光が注がれていることだろう。
うねる波に、心地よい潮風。
ギリシアの三段櫂船より、いやペルシアの軍艦より縦に大きい帆船は、ゆうゆうと大海原を切り開いていく。
最高の1日の始まりだ。
私は、その始まりの朝に
「オロロロロロロロロロロロオロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロ」
虹色のゲロを吐いていた。
ザクロたちが寝静まる、暁に私の吐しゃ音が響き渡る。
「全く、まだ船出から半日も経ってないっていうのに、船酔いなんてなさけないねえ」
誰かと後ろ振り返ると、呆れかえった声をかけたのはエマだった。彼女はゆっくりと近づき、私の背中を優しくさする。
「スパルタ人は……船酔いなどしない。あのアテナイ人が酔わんのだ」
「そんな毒々しい色のゲロ吐いておきながら強がるんじゃないよ。なに食ったらそんなんになるんだい」
「特に変なものを食べた記憶はないのだがな」
「明らかに砂みたいのも混じってたけど……まあいいさ、ちゃんと海に吐いたから甲板を汚したわけでもないし」
まさか船の上がこれほど揺れるものだとは想像もしなかった。
医者がいなければ、アルゴー船は吐しゃ物で沈むだろう。
「もう
「物騒なこと言うんじゃないよ。こんな静かな海に生贄捧げてたら、嵐の時には誰もいなくなってる」
「いっそのこと、泳いでいこうか」
「だから、馬鹿言ってんじゃない。船に人間が追いつけるわけ――あんただと追いつけそうなのが怖いんだよね」
「泳ぎなら得意だ。滝だって登ってみせるとも」
「だとしても今はやめときな。いくらあんたが強いっていっても、弱った状態で海を泳いだら魔物の餌だ」
「
「パンも受け付けそうにない体調で何言ってんだって感じだよ、全く。口の中ゆすいだら、そこの樽に入ってる果実でも齧りな。少しは気分が良くなるよ」
「ありがたくもらってオロロロロロロロロロロロ」
「ああ、もう。しゃべらなくていいから、休んでな」
言葉に甘えて口を閉じて、船の手すりに体重を預ける。
スパルタが海軍をもっていないことが、こんなところで災いするとは
「最初の港町まで後数時間かかるからね。落ち着いたら涼しい部屋で横になるんだよ」
それだけ言うと、エマは水差しを置いて去っていく。本当に何から何まで助かる。
私は水差しを手に取ると、蓋を開けて、頭から冷水をぶっかけた。
幾分か楽になる。顔面にばしゃりと水をかけれれば、どれだけ疲弊していても起き上がるのがスパルタ市民。
毛皮の鎧が濡れるのが難点だが、口元の汚れも取れる。一石二鳥というわけだ。
「それと、そうだ樽の果実と言っていたな」
木を容器にするなど贅沢だと思ったが、この国はギリシアのどの国より自然が豊かだ。陶器を作るまでもないということか。実際、輸送時割れる心配のある陶器よりは木の樽の方が合理的だ。
だが、あまりにも簡素な見た目はいただけない。もっと神話や英雄譚で色付けた方が好みだ。アテナイ人は嫌いだが、彼らが
ギリシアの陶器に思いを馳せながら、私は樽を開けた。
「なんで私がこんなことに……こんなのってないわ、悪夢だわ」
そっと閉める。
「疲れているせいであろうか、樽の中には果実ではなく女性が入っているように見えたのだが」
念のためもう1度慎重に蓋に手をかける。
「そもそも私のせいじゃないって言うか、オークが攻めてこなきゃうちだって健全な運営してたし、とどめを刺したのはあの最低ランクも冒険者のせいでしょうが。というか散々冒険者をこき使っておきながら、数日お金が払えないだけで破産とかなめてんの? これから誰が魔物退治するの? 軍隊だって再編成してないのに? はー、これだから先の見えてない奴らは馬鹿だっていうのよ。どうかピエタに呪いあれ、オークに滅ぼされ――あ?」
閉めた。
幻覚ではなかった。
暗い顔をした女が、
というか知ってる顔だ。ピエタの冒険者組合受付嬢。やけ酒に溺れながら、私に助けを乞うた者だった。
「ここで会ったが100年目よ!!」
受付嬢が樽を破壊して現れた。アレスでも13か月だというのに、ずいぶんと体感時間が長い女だ。
それはそうと素晴らしい筋力だな。受付嬢ではなく冒険者でもやれば良かったのに。
「あんたが依頼を放棄してくれたおかげさまで、絶賛借金まみれで夜逃げしている、元受付嬢でございます! よくもやってくれたわね!」
「待て、私は依頼を放棄したわけでは」
「では、山賊と魔物の退治、薬草の採取は完遂したのですか?」
「それは、あー」
山賊は逃亡。魔物は一片も残らず消滅。薬草に至っては土地に魔力が残っていいないため、今後一切の採取が不可能であろう。
「すまぬ」
「
受付嬢の爪が頬をかすめる。
良い筋だ。生身でスパルタ人の肌に爪跡をつけるなど、中々できることじゃない。
「謝っているではないか」
「謝ってすむなら裁判はいらないのよ」
毎日裁判してる
「ながれの、しかも最低ランクの冒険者に泣きついている時点で詰んでいたであろうに」
「それでもあんたが成し遂げていれば一縷の望みがあったのよ!」
ああ言えばこう言う。受付嬢は完全に頭に血が上っているようだ。説得は無理そうだな。
言い争っていると、騒ぎを聞きつけた水夫や商隊の護衛たちが何事かと寄ってくる。
ここで逃げるのもスパルタ人らしくないな。
仕方ない。絶不調ではあるが、売られた喧嘩は
「最初に言っておくが、武力を行使するなら手加減はできんぞ」
陸ではないため、いつも以上に足腰に力が入っている。ぎりぎりで拳を止めるといった動作は難しそうだ。
「冒険者組合の受付嬢を舐めんなよ。こちとら日常的に喧嘩する冒険者たちを仲裁してたんだ」
そこまで言うならば構うまい。
スパルタの
そう思っていたら、右から野次が入る。
「ヘラクレイオス、顔はやめとけよ」
「それもそうか」
野次の言うことももっともだ。では
彼女が拳を構え、私は腰を落とす。
「吠え面かくんだね、低ランク冒険者あああああ!」
「来い」
勢いよく走りだす受付嬢。
しかし、彼女が私に襲い掛かってくることはなかった。
「はえ?」
彼女は空を飛んでいた。
戦技を使ったわけではない。黒い影によって真横に吹き飛んだのだ。
私を含め、そこにいた全員が呆然と空を見る。
牙の生えそろった巨大な顎。
大の男2人を並べたような巨大な魚体。
「「「サメだああああああああああああああああああああああああああ!!!」」」
受付嬢は鮫にくわえられて海に落ちた。
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