第4話
「高度が落ちてきているな」
「お、落ちてるね」
「このままでは、ぶつかりそうだ」
「そ、そうだね」
「斬ってよいだろうか」
「お、王族のものを傷つけるのはちょ、ちょっと」
西の空から真っすぐ進んでいた犬橇は、風に煽られたのか、きりもみに落下している。
避けようにも、このままでは荷馬車に突っ込む進路だ。
商人の列がにわかに騒がしくなっている。腰が抜けて頭から倒れた者までいる始末だ。というか、先ほど話していた恰幅の良い商人だった。
見殺しにするわけにもいかない。
「まあ、肩慣らしにはちょうどよいか」
私は巨大な犬を見据え、腰を落とす。
オリンピアの祭典でも行われるレスリング競技では、相手の背中を地につけるために、様々な技法がある。ゆえに、倒されないための技があるのは道理。
左足を大きく下げ、地面に対する杭とする。
しかし、膝は柔軟に。衝撃を受け取める際に足を一直線にすれば、衝撃が逃がしきれず砕けてしまう。
スパルタの筋肉は剛柔一体。
でなければ、ペルシア軍100万の突撃を盾で受けきることなどできない。
「さあ、来い
猟犬と目が合う。獣にしては理知的な瞳だ。
だからだろう、制御が効かない中、精一杯猟犬は落下地点を私に合わせた。
心臓が鼓動する度に、私と猟犬の距離が縮まっていく。
音は遠く、時間の経過があやふやになる。
そして、互いの距離が消失した。
「―――――――――――――――――――――っ!」
地表面がえぐれる。
全身の血が沸き立ち、汗が噴き出る。
奥歯が砕け、目が飛び出そうなほど激甚な衝撃。
「……中々よい突進だ」
受け止めたのは左脇。オリーブの圧搾機より強力に絞り上げ、すっぽ抜けて商人たちの方向へ行かないように指向を定める。
それでもなお、落下の力を得た猟犬は止まらない。
「だが、テオゲネスのタックルの方が上だな」
頭に浮かんだのは
彼の組みつきは、スパルタ人でさえ背中を土で汚す。いずれはオリンピア祭典の覇者として語られるだろう彼の技と比べれば、力強いだけの突進などかわいいものだ。
息を吸う。
全身に力を巡らせる。
力と力の真っ向勝負。
血管がいくつか破裂して、肌を青くする。
全身の筋肉がぷちぷちと切れるのがわかる。
骨がきしむ。
永劫とも一瞬とも感じられる時間。
そして、それは唐突に終わった。
頭から倒れた商人の帽子が飛ぶ。
「――――――
私の
一拍の静寂、そしてどっと沸く群衆。商人たちは祭りのように盛り上がり、喝采をあげた。
犬が暴れないことを確認して、私は縛り上げていた腕を放す。
「いい子だ」
頭をなでてやると、気持ちよさそうに目を細める。
彼――彼女? 性別はわからぬが犬も気を張っていたのだろう。どこか安堵したような表情をしていた。
「ありがとう、助かったよ」
「気にしないでください、情報をもらったお礼です」
「はは、君は命の恩人だ。堅苦しい敬語はなくていいよ」
「む、そうか」
私は彼の手を取り、ぐっと引き上げて立たせた。
「でも、大丈夫なのかい? あの乗り物はプライム王家のものだったんだけど」
「問題があるのか?」
「し、知らないで止めたのか! これはまずい、早く逃げてくれ」
柔和な笑みが一瞬で、恐怖に染まっていた。
「それはどういう――」
「つまり、貴方は王家の宝物に触れた、罪人というわけですわ」
涼やかな声に振り向く。
「遅かった」と商人の悔恨を含んだつぶやきを背に受けながら見たものは、驕奢な女だった。
切れ長の赤い瞳に、艶のある黒髪。
肌はエジプト人のような褐色であり、香油を塗ったように輝いている。
金銀財宝をあしらった衣服の上から、透けて見えるほど薄い生地の外套を羽織って佇む姿は、彩色された
彼女は全身からふわりと花の香りを漂わせながら、キッと私を睨めつける。
「よくも天上種たるエルフ様から賜った猟犬を……その美しい毛並みを汚してくれましたね。プライム王国第3王女、イザドラの名において貴方を捕縛します」
犬橇から重厚な鎧の騎士が現れ、私を取り囲む。
商人たちや3馬鹿は恐縮し、すぐさま膝をつき、頭を下げた。
「お待ちください、イザドラ様! 彼は私たち商人を守ってくださったのです」
「そうだ! 元はといえば、突っ込んできたのはそっちだろ。スパルタの旦那は正当防衛しただけだ」
「貴方たちに発言を許した覚えはないですわ」
私をかばおうとした商人と3馬鹿が、騎士におさえつけられる。
「しかし、この者が止めねば貴女様も無事ですまなかったはずです。どうか、どうか寛大な処置を」
それでもかばおうとする商人に彼女は冷たい視線を浴びせる。しかし、決して折れない姿を見て彼女は息を吐く。
「……わかりました。それでは、言い分だけは聞きましょう」
イザドラの挑発的な視線が私に向けられた。
ザクロが杖が構える。いつでも死霊術で切り抜けられると目で訴えてきている。
しかし、私は武器を構えることができない。
彼女を見た瞬間から、
「ど、どうしたのヘラクレイオス?」
ザクロの言葉もどこか遠い。
私の眼には、イザベラしか入っていなかった。
そして、かろうじて動いた口で呟いた。
「なんと美しい……」
「へ、ヘラクレイオス!?」
「スパルタの旦那!?」
自然にこぼれてしまった言葉に、周りの者たちが動揺する。
已然として態度が変わらないのは、イザドラだけだ。
「……何を言うと思えば、そんなありふれた世辞が最後の言葉ですか?」
突き放すような対応も気にならない。
小鹿のようにたおやかだが、蛇のようにしなやか。
くっきりとした輪郭は、一流の彫刻師が作った青銅像より見事。
奇跡的に凛々しさと艶めかしさが調和している。
「ああ」
人々はそれをきっと
「素晴らしい――筋肉だ」
恋と呼ぶのだろう。
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