第40話
たどり着いた場所は、濃い霧に覆われた白い花畑だった。高所ということも合って、少し冷える。
慎重に花畑の中に入ると、所々牛馬によって脱穀した麦のように、花が潰されているのがわかる。間違いなく奴がいた証拠だ。
「ここで間違いなさそうだな」
馬の蹄が花を踏む度に、甘い香りが漂い、私は右手で鼻を塞いだ。
「こ、これ、依頼書にあ、あった薬草」
「花が薬になるのか」
「ううん、実からとれるにゅ、乳液が鎮痛剤になるの」
「ほう」
「でも、量をま、間違えると呼吸困難になったり、あ、扱いが難しい」
「毒と薬は同じものだと習った。それも当然だろう」
12の折、ナイフ1本渡されて裸で野に放たれた時は苦労したものだ。薬の材料と教えられた草を腹の足しにしゃぶっていたら、3日ほど昏倒してしまうのだから。
後々それは薬殺刑にも使われるドクニンジンだと知って納得した。そもそも、全体的にカビ臭かったからな。何の処理もせずに、口に入れて良いものではない。
「は、花が不自然に生えてい、いないとこもある。あの蛇、さっきみたいに地面をえ、えぐるように食べてたみたい」
「一面の毒草に、この寒さ。蛇の動きを鈍らせるには最適な場所というわけか」
水棲でない鱗を持つ生き物は、日が当たらないと動けないと聞く。さらに食事の度に毒草を摂っていたならば、あの怪物も大人しくなるだろう。
では、リックたちは大蛇が動けなくなったところにとどめを刺すつもりだったのか。
いや違う。彼らの目的は飼いならすこと、殺すのは暴走した時と考えて良い。あくまで、この環境は穏便に育成するためのものだろう。
殺す手段は別にある。
「慎重に進――いや、もう近づいてきているな」
音が聞こえる。巨大な体が押し通り、枝木が折れる音が。
忍び寄り、不意をつく捕食者の動きではない。
真っ向から力でねじ伏せて蹂躙をする、怪物の動きだ。
地面の凹凸に気をつけながら歩みを進める。万一馬の足の骨が折れたら、もう走れな――死んでいるからそれはないのか。
脊髄と腸を露出しているのに走り続けている馬に気遣ってもしょうがない。私は速度を速めるように促した。
しかしすぐに、足を止めることとなる。
「あの蛇の、糞か」
うずたかく積まれた山は、摘んだ鼻を飛び越えて強烈な異臭を感じさせた。蝿が湧き、蛆が這う汚物は見るだけでも気分を害する。
腐った馬に乗っているだけでもげんなりするというのに、本当になんて日だろうか。やはり一度どこかで盛大にギリシアの神々に贄を捧げた方が良い。運気がどこまでも下がっている。
せめてヘルメス柱でもあれば気軽にお供えができるというのに、この国にはどの三叉路にも立っていない。
「い、依頼の魔物の骨がある、ね」
「薬草を食っているところを大蛇に食われたか」
「ふ、不死兵にする?」
「骨しか残ってないぞ」
「そ、それだけあればじゅ、十分」
筋肉がないのに、どうやって動くのかは不明だが、そもそも死体が動く時点で今更のような気もする。魔法は不思議なものだと納得するしかない。
「もしかしたら使うかもしれん。頼んだ」
「それじゃあ、
糞の山から翼を広げる魔物。まるで、エジプトに棲むという炎から蘇る不死鳥のようだ。見た目は最悪だが。
10羽ほど、骨の鳥が空へと舞い上がる。
羽もない骨の翼で飛ぶ鳥は生前と同じように風を切るが、すぐに3羽が消滅した。
勢いよく、大きく硬質なものにぶつかったためだ。それは崖となっている山肌や、高く伸びる木ではない。
霧から現れる巨大な
「せっかちな奴だ」
まだ、作戦の一つも立っていないというのに、敵はすでにやる気満々だ。
だが、こちらとしてもただで食われるわけにはいかない。
「せめて貴様の牙1つ、砕かせてもらおうか」
「KISYAAAAAAAAAAaaaaaaaAAAaaaAAAAAAA!!!!」
蛇の全筋肉からなる突撃は、驚異的な速度と重さを持っている。
しかし、単調な動きならば対処できる。
首無し馬は、私の意を汲んで跳んだ。
瞬間、弾ける火花。大剣と牙がぶつかり合い、白い花弁が舞い上がる。
「重い。重いが、それだけではスパルタ人を
私とザクロは馬ごと弾き飛ばされる。
だが、大蛇とて無傷ではない。馬で野原を駆ける者が、空飛ぶ甲虫にぶつかって悶絶するように。自らが速ければ速いほど、小さきものから受ける衝撃も跳ね上がる。
まあ、ぶつかった虫も無事では済まないのだが。
牙が地面に突き刺さるのと同時に、私は赤黒くなった右腕を押さえながら着地した。
「へ、ヘラクレイオス!」
「軽症だ。それより、私はこいつを抑えている。ザクロはこの怪物を殺す手段を見つけてくれ」
勇んだものの、右腕の感覚はほとんど喪失している。剣を握るだけでも精一杯だ。さらに、馬に乗っている間に回復した体力もわずか。
おろおろと頭を左右に振るザクロを見やる。
ザクロは、いざとなったら逃げるだろう。私の身体が目的であるが、骨でも復活できるならば、大蛇が食事を終えた数日後にでも見計らって回収に来れば良いのだ。
自分が消化される危険を冒してまで手伝う必要はない。
それをわかっていながら私は馬を降りる。そして、馬の尻を叩き、ザクロを先に行かせた。
「スパルタ以外の者を頼るとは、私も弱くなったな」
肩を並べた戦友に話したら、笑われるだろう。スパルタとして生き、スパルタとして死ぬ。他国の、それどころか戦士でもない死霊術師に己の命運を任せるなど言語道断。
盾を構える。
膝より高く、肩まで隠れるように。
剣を構える。
盾の縁で滑らせて、素早い突きを放てるように。
身体はすでに限界を超えている。
それでも、せめて戦いだけはスパルタ人らしくあろう。
骨――右腕複雑骨折及び、ひび割れ多数。
臓器――栄養不足。
武器――業火の魔剣ヘルファイア。
鎧――オークから奪った毛皮鎧。
盾――ヒヒイロカネ合金の円盾。
他、擦過傷、火傷多数。
戦力――
「異常なし。さあ、怪物よ待たせたな」
大蛇は焦らない。眼を潰され、牙を折られようとも、有利なのは自分だと理解している。最後には自分が勝つと、思いあがっている。
実際機動力を失い、攻撃力を失った私など負傷した小鹿のようなものだ。
あとは蹂躙した後で丸呑みし、腹で味わうといったところか。
大蛇が頭を振った。
とっさに盾を向けるが、衝撃は真逆から襲ってきた。三段櫂船の竜骨をいくつもまとめたような尾が、私の背中を叩く。
痛烈な打撃。
背骨が折れるのがはっきりわかる。内臓もいくつか破裂している。
喉の奥からせりあがるのは、血か吐しゃ物か。味がわかる前に飲み込んで耐えた。
「っつ」
着地もままならず、地面を転げる。
薬草の実に鎮痛作用があると言っていたが、直接塗っても効果はないようだ。
「どうした、こんなものか」
空元気で立ち上がったところに、長く太い胴による跳ね飛ばし。上下左右、どこにも逃げ場はなく、私は再び空を舞う。
方向感覚がなくなる。どちらが空で、どちらが地面かわからなくなる。
頭がグワングワンしたままの着地は、もはや着地と呼べるものではなく、頭からの落下だった。
「はは、さすがだな」
それでも、立つ。
わずかでも勝てる可能性があるならば、それはまだ天命ではない。
腕が折れた?
背骨が折れた?
それがどうした。
私はスパルタ人だ。
右腕が折れたなら左腕で殴り飛ばす。
背骨が折れたなら背筋で姿勢を保つ。
息を引き取るその瞬間まで、戦い、殺し続ける戦士だ。
「次はこちらからいくぞ!」
鱗のない、柔らかい腹に大剣を突き立てた。
あの巨躯では針が刺さった程度の痛みだろう。予想通り、致命的な傷にはならず、それどころか筋肉の収縮で抜けなくなり、剣が奪い取られた。
「KISYAAAAAAAAAAAAaaaaaaaaaAA!!!」
再開される、最速最強の噛みつき攻撃。牙1つ落としたところで、その脅威は衰えることはない。口の中に1度入ってしまえば、2度と出てこられないだろう。
身をひねり回避を試みるが、半歩遅れた。頼みの綱の盾が、大蛇の腹に嚥下される。
走りながら考える。投げや関節の効く体ではない。それでは拳闘?
それこそ無意味だ。あの巨体を叩いたところで衝撃は分散される。
それでも、やるしかない。
まだ大蛇の頭は戻って来ていない。霧の濃さも相まって見えないところまで行ってしまった。
私はこの機を逃さず、鱗を駆けのぼり、その背中を走った。
目的地は頭。潰れた眼だ。
どれだけ巨大でも傷に塩を塗られるのは堪えるだろう。
だが、大蛇も
私の浅知恵など見透かすように、身をよじらせる。
鱗を掴み必死に耐えるも、地震のような巨大な揺れに、思わず手を放してしまう。
下に化け物の糞がなければ死んでいた高さだ。
「よもや糞に救われようとわな」
生暖かさが気持ち悪い。早く這い出ようとしたが、足を取られて中々上手くいかない。
蛇に見つかる前に出ねばと焦るが、様子がおかしい。
まるで大蛇は私の姿を見失ったかのように、静止している。
「霧で見失った? いや、あいつは最初この濃霧で私たちを見つけた――では嗅覚か」
臭いが上書きされたことで、私を発見できないのか。
助かるが、それでは最後の希望と送り出したザクロが見つかってしまう。
「……腐敗臭で獲物ではないと判断されればよいのだが」
希望的観測は危うい。私はやっとのことで糞から這い出してから、忍ぶようにザクロを探しに行った。
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