第39話

 蛇は恐ろしい生物だ。


 ギリシアにおいて、蛇は神聖の象徴であるとともに、怪物の象徴である。

 神聖なものとして伝令神ヘルメスの持つ2匹の蛇と翼を持つ杖ケリュケイオン医療神アスクレピオスの杖。

 怪物としては9つの首をもつ毒蛇ヒュドラや蛇の髪を持つ女怪メドゥーサが有名であろう。


 そして、その両方を兼ねる聖域の守護者ピュトーン。

 彼はデルフォイの聖域に鎮座していたが、遠矢射る君ヘカエルゴス銀弓神アルギュロトクソスの異名を持つアポロンによって射殺された。他の怪物と異なり、神が直接手を下したのだ。

 怒りや嫉妬によらず、実利から神が怪物を直接退治することは珍しい。ヘルメスが百眼の巨人アルゴスを退治しているが、それだって神の女王ヘラの嫉妬が原因だ。

 アポロンが命じれば、多くの英雄が身命を賭して討伐に向かったであろうに。不完全な人間に名誉の機会すら与えずに、自らの体を傷つける覚悟で単身討伐を行った。

 

 それだけ人を丸呑みにできる大蛇は危険だ。間違いなく、人の身が神の加護もなく戦ってよい相手ではない。



「行け、玄翁大蛇ハンマーヘッドボアあいつらを食い殺せ!」


 

 リックの命令で、蛇は嬉々として襲い掛かる。

 懐いていないと言うわりに従順ではないか。よほど腹が減っているのか、滴る唾液が地面に筋をつける。



「ザクロ、もう一度魔力を」


 

 あれは盾では防ぎきれない。上の牙を押さえ込んだところで、あぎとの力で押しつぶされるだろう。人間と怪物では、その筋肉量に大きな差がある。

 それを埋めるのが人類の叡知。大英雄ヘラクレスもその機転で12の功業を成している。子孫を称するスパルタ人として、戦闘においては頭を働かせるのもやぶさかではない。

 

 再び燃え上がる剣身。多くの生物は火を怖がる。まして、森を焼き尽くす高熱ならばなおさらだ、という考えからだ。

 しかし、大蛇の頭は止まることなく直進してきた。



「ちっ!」


 

 ここまで巨大な怪物にとっては、金属を溶かす炎も路傍の石のようなものらしい。


 ザクロを脇に抱えて跳び退くと、巨大な口が真横を通過する。

 土砂崩れのような音が、生物から発せられるとは思いもしなかった。

 転がる鎧や武器、地面を覆う灰、果ては土ごと呑み込んで、跡にはただ巨大なわだちが残された。

 まるで地震の神ポセイドンの戦車が踏み荒らしたような光景に、私はスパルタ人らしくない冷や汗を流す。



「逃げても無駄だ。こいつは執念深く、どこまでも追いかける。お前の体力が尽きるまで嬲った後に、さぞ美味そうに飲み込むだろう」


「それはぞっとしないな」



 すでに体力は限界。少し休めばある程度は回復するが、それを許してくれる相手ではないだろう。

 何しろ、その身体のほとんどが森に隠れるほど巨大なのだ、逃げる場所などない。


 万事休す。

 戦場で死ねないことは無念だが、神話の怪物に殺されるならば、勇士として謳われるだろうか。いや、全員腹に収まってしまえば謳うも何も語られることすらない。


 最悪の想定をしていると、唐突に横腹を突かれた。

 ザクロだ。彼女は恐る恐るといったふうに指で突いている。


「へ、ヘラクレイオス、馬はの、乗れる?」


「乗れるが、それがどうした」



 黄金の騎馬民族トラキアには劣るとはいえ、スパルタ人も騎乗できる。人より速く、長距離を走れるので伝令に便利だ。

 スパルタ教育アゴゲで乗れるまで帰れなかった日が懐かしい。その時は内腿の皮がべろべろになっていたな。



「じゃあ、手綱はお願い、するね。不死兵召喚アンデッド・サモン!」


 

 彼女が呼び出したのは、首のない馬ヘッドレスホース。どこかで見覚えがある。

 そうだ、あの槍の傷は私が崖の隘路で狩猟の神アルテミスに捧げようとした馬のものだ。完全に儀式を忘れていたが、ちゃっかりザクロが収納していたのか。


 ザクロに言いたいことや、神への不敬や考えることは色々あるが、今は正直なところ助かった。ペガサスの騎手ベルレフォンが夢でアテナに黄金のくつわを授かった時はこんな気分だったのだろうか。

 私はすぐさま馬の背に乗るが、重大なことに気付く。



「手綱がないのだが」



 首がないのでくつわがないのは当然だが、これでどう方向転換をすればよいというのか。



「あ、そ、そうだね……えい!」



 彼女が気合を入れると、馬の首の根元から、脊髄と血管が伸びて輪を作る。

 これを、握れというのか。



「あ、あと、これも」



 馬の横っ腹から腸がはみ出し、私の足の爪先を包む。さらに背の肉が蠢き、椅子のような背もたれを形作った。

 

「は、裸馬より、鐙と鞍があった方が良いってき、聞いたことあるから」


「あぁ……」


 そういえば、騎士レオルドの馬の背にも何かついていた気がする。

 確かに乗りやすい。内腿を必要以上に締め付ける必要もなく、腰を浮かせて尻の負担を減らす必要もない。

 乗りやすいのだが、この不快感は如何ともしがたかった。何が悲しくて血生臭い臓器にまみれて乗馬などしなければいけないのだ。


 贅沢を言える状況ではないとはいえ、せめて腐敗臭だけでも抑えて欲しいと願うのは、弱さなのだろうか。



「く、くるよ!」



 大蛇が頭を戻し、今にも次の噛みつきを行おうとしていた。動きがひどく緩慢のは、まだ獲物で遊んでいる証拠だ。移動手段を得た今、付け入る隙はある。



「ええい、ままよ!」



 血の滴る手綱を引き、ヘッドレスホースを走らせる。首のない馬は、嘶きを上げることなく静かに、力強く駆けだした。


 しかし、敵も学んだのか方向転換が速い。すぐさま馬の掛ける先に頭をうねらせた。いや、あれは最初から狙ってやっている。

 証拠に大蛇の眼には、捕食者特有の嘲笑が宿っていた。



「く、間に合わない」



 制動をかけるが、時はすでに遅い。大蛇の目論見通り、私たちはやつの大口に吸い込まれるように向かっていく。



「だ、大丈夫、不死兵召喚アンデッド・サモン



 それを打ち破ったのは、またしてもザクロだった。

 馬が空を駆ける。

 天馬ペガサスのように翼が生えたわけではない。

 足元に生えた屍体の腕が、私たちを馬ごと放り投げたのだ。


 大蛇と目が合った。さすがの怪物も、獲物が蛙のように跳ねるとは思わなかったのだろう。丸い赤眼には驚きが含まれているように感じる。



「ひやひやさせてくれたな。これはその礼だ」



 私はすれ違いざまに、その眼を大剣で斬りつけた。



「KISYAAAAAAAAAaaaaaaaaaaaaaAAAAAAAAAAAaaaAAAAAAAAAAAA!!!!!!」



 絶叫。のたうつ巨体は森を破壊し、いたるところで木々と土砂を舞い上げる。

 その機を逃さず、馬を加速させた。進路は山の頂上だ。



「ふ、麓に行かないの?」


「あんな化け物を人里に放り込むわけにもいくまい」



 それこそ、ピエタにでも到達したら大惨事だ。ただでさえオークに壊滅的な被害を受けているのに、怪物に襲われでもしたら、あの都市は廃墟となる。



「それに気になることがある」


「き、気になること?」


「ああ」



 リックは、あの蛇が完全に懐いていないと言っていた。エドは伝説の魔物を倒すために魔剣を持っていると言っていた。

 もし、あの玄翁大蛇ハンマーヘッドボアこそ伝説の魔物であるならば、暴走した時にエドが処分するという意味となり、話の筋は通る。

 しかし、あの赤い騎士にそこまでの力量があったかと考えれば、そうではない。

 確かに、空を飛び、炎の剣を操る能力は脅威だが、あの巨躯の前では蠅が飛んでいるのと変わらないだろう。


 

「恐らく、蛇が来た場所、山の奥に何かがある」


「わ、わかった」



 私たちは数少ない勝機を見つけるために、蛇のいたであろう山奥へ、風を切って進んでいく。

 

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