第31話

 水浴びが終わり、教会に向かおうとしたところでアレックスに止められた。



「何をする?」


「何をって、服着ろよ」



 不思議なことを言う。包帯はすでに巻き直せる状態ではないし、鎧兜も持ってきていない。何より、スパルタ人の肉体のどこに外に出して恥ずかしい部分があろうか。

 いや、そうか。兜がないならば冠をかぶるのが当然だと諭してくれているのか。



「なるほど、確かに葬儀ならばパセリの花冠が必要だな」


「いや、パセリはいらんけども」


「うむ? ではセロリか」


「なんで野菜を頭にかぶろうとするんだ! 服を着ろといっているんだよ。全裸で武器持ってる奴が町中歩いてたら、警告なしで逮捕されるわ!」


「そうなのか」



 どうやら花冠が原因でないようだ。

 しかし、服を着るか。

 スパルタでは全裸で鍛錬することも多く、違和感を覚えることはないが、やはり町には町の規則がある。大人しく言うことを聞こう。



「そうは言っても着るものがあるまい」


「おいおい、ここは貴族の屋敷だぞ。服ならよりどりみどりだ」


「強奪ならともかく、空き巣など戦士のすることではないのだが……」


「強奪の方が質悪いわ。まあ待ってな、1着くらいなくなっても、オークが盗んだと思うだろ」


 

 それだけ言い残すとアレックスは屋敷の奥へと消えていった。本当にこの国に着てから窃盗の神ヘルメスに祈ることが多くなった。

 スパルタ人としてどうかと思ったが、巨人戦争ギガントマキアの折に戦神アレスを救出したのもヘルメスであるから、別に良いのか。


 さて、彼が戻るまで手持ち無沙汰になってしまった。

 ぼーっと突っ立っていても仕方ないので、鍛錬でもしよう。浴場を支える手頃な梁を掴んで、片手懸垂を始める。少しばかり傷は開くが、これから治療するのだから対して変わりあるまい。



「ふっ、ふっ、ふっ」


 

 汗と血が滴り落ち、浴場の床を汚す。

 全体重をかけられた腕に走る痛みが心地よい。筋肉の1つ1つが歓喜を上げているのが実感できる。


 右腕が済んだら左腕だ。均等に鍛えることが重要だ。カルキノスのようになってしまっては、肉体美が台無しになるからな。


 左右100回ずつ行ったところで、鍛錬中ずっと感じていた人の気配に目を向ける。アレックスのものではない。彼だったら長時間視線を寄越すことなく話しかけているだろう。



「誰だ」


 

 詰問に返事はない。だが、明らかに怯えた様子だった。狼に睨まれた子鹿はたしかあんな風だったか。


 しばらく睨めつけると、観念したのか気配の主がおずおずと、しかし背筋だけは伸ばして姿を現した。


 少年だ。目鼻立ちが整い、金色の髪がさらさら揺れる。服は今まで見てきた誰より派手で、エマのものより金がかかっているように見えた。



「へ、変態!?」


 少年が叫んだ。

 私は梁に手を置いたまま浴場を見渡す。私と彼以外誰もいない。ならば自己紹介だろうか? 誰だと聞いて変態と答えるとは変わった少年だ。



「ふむ、変態はここで何をしている?」


「え?」


「む?」



 何やら行き違いがあったらしい。私に見えないだけで、窓の外に変態がいたのかもしれないな。

 

 梁から手を離して着地する。

 子供と話す時は目線を合わせるのが肝要だ。部下となる年少組アゲライなら居丈高に、命令すればよいが、彼はスパルタ人ではない。



「先に名を名乗るのが礼儀だな。私はヘラクレイオス、君は?」


「僕はユーリッド=ピエタだ」



 ピエタ。都市の名と同じとはなんとも珍しい。

 名乗ったことで緊張がほぐれたのか、ユーリッドの探るようなおどおどした態度は消えた。代わりに、キッと眉尻を上げて生意気そうな顔になる。



「ユーリッド、良い名だ。それで貴公は何故ここに?」


「それはこちらの台詞だ。僕の屋敷で何をしている!」


「僕の?」



 浴場だけで宴会ができそうなほど広い屋敷を自分の所有物だという。しかも、ピエタを名乗っている。



「もしかして、領主の息子か?」


「そうだ、オークの変種め! これ以上僕の屋敷を荒らすことは許さないぞ」


「待て、私はオークではない」


「嘘をつけ! 浴場の使い方も分からず、筋トレをする変態がオークでないわけがないだろ!」


 

 激高のままに少年はナイフを抜く。綺羅びやかで美しい、とても戦闘向きではないナイフを。



「もうこれ以上隠れてなんていられない。幸い今はお前だけのようだからな! 僕は父上の仇をとる!」


「仇も何も、君の父親の顔すら知らないのだが」


「うるさい!」


 

 私の言い分を全く聞かずナイフを振り回して突撃してきた。腰に構えて突きさそうとするわけでもなく、無茶苦茶な振り回し方だ。



「頭に血が上っているな」



 こうなってしまえば、どれだけ言葉を重ねようと相互理解はありえない。おしゃべり好きのアテナイ人と違って、スパルタ人は口下手だ。


 だから対話は自然とスパルタ式になる。

 さすがに手心を加える。これでも多くの若いスパルタ人を鍛えてきたのだ。加減くらいできる。


 走りくるユーリッドのすねに、土踏まずをひとつ置く。足払いする必要もない、それだけで彼は浴槽に吹っ飛んでいく。

 盛大に水柱を上げた。だが心配ない。私が座っていた時に肩に届かぬ程度の深さだ。鼻は折れたかもしれないが、溺れることはないだろう。



「ぷはっ! 貴様何を」


「頭は冷えたか?」


「……無礼な!」



 ユーリッドはまだナイフを離そうとしない。ならば、不本意であるが肉体言語かいわを続けよう。


 ずぶ濡れになった服の重さに引きずられながらも、果敢に挑んでくる少年。意志は立派だが、意志だけで勝てるならスパルタはいらない。

 彼のナイフが届く前に、額に親指で力を溜めた中指を弾くと、縦に2回転して浴槽に戻っていった。



「ぎ、ざまぁ!」


「良い加減話を聞いてもらうと助かるのだが」



 本当のスパルタ式訓練アゴゲではあるまいし、子供をイジメて楽しむ趣味はない。もし訓練だったら、最初の脚をかける段階で脛の骨を折っている。


 私の気持ちを知りもせず、全く懲りない単調な突撃。

 

 私は溜め息をついて真正面からナイフを握る。

 少し痛めつければ理解すると思ったが、中々に面倒だ。

 刃が肌を裂くことはない。スパルタ人の肌は鉄だ。そして、筋力は巨人ギガスに劣らない。

 握ったままのナイフをひねり、そのまま刃を握り潰した。



「満足か?」


「そんな、僕は、父上の仇すら……うぅ、うえ、うえぇぇぇぇん!!」



 怒ったと思ったら、すぐに泣き出す。

 ああ、スパルタ人の子供相手だったらどんなに楽だったことか。泣く度に泣かなくなるまで、叩きのめせば良かったのだから。


 そんな混沌とした現場に、軽快な足音が聞こえてくる。

 服を盗みに、もとい探しに行っていたアレックスだ。こちらの気も知らないでいい気なものである。



「おーい、あんたに合いそうなサイズの服持ってきたぞー。あんたは大柄で筋肉質だから見つけるのがたいへ……ってユーリッド様!!」



 陽気な声を上げたかと思えば一転。アレックスは両手で抱えていた服を全て落とした。それに気づいたユーリッド少年はじろりと睨む。



「顔見知りか……」 



 何故貴族屋敷の浴場を知っていたのか何となく察して、私は再び重い溜め息を吐いた。

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