第17話
崖の道は、馬車が一台やっと通れる細さだった。
左には急勾配の山があり、右には深い谷。谷底では滝のように速い川が流れている。毎日泳いでいたエウロタス川より広く、荒々しい。
訓練には良いだろうが、鎧のまま落ちたら戻ってくるのは難しいだろう。
水浴びは保留にすることにした。
「この光景は……否が応でも思い出してしまうな」
それは瞼にこびり付いた記憶。
左には霊峰パルナッソス山、右には
レオニダス王の号令でスパルタの盾はひとつの壁と化し、槍は一糸乱れず敵を貫く。
不死の軍団も、呪術師も、地獄から蘇った怪物も、太古の巨人も、悉くを屠った。
だが、1人の裏切り者によってペルシアに背後を取られ、敗れた。
栄光の瞬間であり、同時に苦々しい記憶でもある。
「もしかしたら、この谷にも抜け道があるやもしれん」
そうなれば盗賊に襲われる危険もある。戦技とやらがあれば、急な山肌でもあるけるのだ。用心するに越したことはない。
「だが、まずは贄を捧げなければ」
抱えていた臓物を岩の上に置いて簡易的な祭壇とする。アルテミス・オルテイア神殿で行った儀式を思い出そうと頭をひねっていると、前から頭の悪そうな声がした。
「あれれーおっさん、一人旅ですかー?」
「知ってる? この道って通行料が必要なんだよ」
「大人しく金貨10枚払いな。じゃなきゃお前を売っぱらうぞ」
なんといいうかまあ、案の定ガラの悪い山賊が現れた。
意外なのは3人しかいない上、装備はみすぼらしく、武器の手入れもされていないことだ。しかも、奇襲するわけでもなく、のこのこと正面から。
戦技を使えないのか、もしくは馬鹿なのか。恐らく後者だろう。
しかし、不思議だ。
狭い崖路だが、一応都市をつなぐ街道。騎士や護衛を雇った商人が通るというのに、これほど程度の低い山賊が生き残っているとは。
もしかしたらこの3人は囮で本隊が潜んでいるのかもしれない。
「おい、無視してんじゃねえよコラ!」
「俺たちが優しくしてるってのに調子に乗りやがって!」
……まあ、良いか。
伏兵がいるならまとめて蹴散らせばよいし、根城があるというならば2人殺して残りの1人から聞き出そう。
結論を出して、盾と槍を構える。
槍の柄は少しガタが来ているが問題ない。折れたら拳があるし、目の前には手入れを怠っているとはいえ奪える武器がある。
空気を吸い込み、いざ戦闘開始――というところで、山賊の後ろに新たな人の気配を感じた。
背が低い。子供だ。
「うん? なんだこのガキ。ここは通行料ないと通れないぜ」
「ガキだからって容赦しねえぞ!」
キャンキャンと山賊がまくし立てるが、子供は何事もないように歩き続ける。
旅人にしては様子がおかしい。あまりに軽装すぎる。
さらに、着ているローブは魔術師が着ていたものと似ているが、あまりに禍々しく、まるで
右手に持つ杖には人骨の頭蓋がはめられており、歩くたびにカラカラと顎が揺れる。異端の神々の司祭だろうか。
「聞いてんのか、おら――――え?」
手を上げた山賊が宙を舞う。そして何の抵抗もできないまま谷底に真っ逆さまに落ちていった。
何が起こったか分からず、残った2人の盗賊は口を開けて呆けていた。
だが、意識を取り戻すと一転して怒りを顕にした。
「な、よくも兄弟を!」
「ぶっ殺してやる!」
技もなくただ闇雲に剣を振るって襲いかかる。
しかし、刃が届くことはなく、2人とも仲良く谷底に落ちていった。
子供は何事もなかったように真っすぐ歩いてくる。
私は眼を見張った。
あれは腕だ。
蛙の舌より速く、象の鼻より長い腕が、3人の足首を掴んで放り投げたのだ。
何より恐ろしいのは、その腕に気配がない。
「…………」
子供は歩みを止めない。
一歩一歩、ゆっくりと近づいてくる。
気配のない腕に警戒して、全身を身構えるが一向に飛んでこない。
こちらから仕掛けるにも不確定要素が多すぎる。攻撃しなければ敵対しないと考えるのは、甘いのだろうな。
徐々に間合いは詰められる。
槍の間合いまであと肘ひとつといったところで、そいつは顔を上げた。
充血した赤い眼の下に、大きな隈を作る少女。
彼女は不器用に笑い、言った。
「お前、いいな」
瞬間、左右から幾十もの腕が伸びてきた。
いつの間に囲まれていたのか。とても躱しきれる量ではなく、盾ひとつで防ぎきれる量でもない。
ならばどうする?
考えている内にも
スパルタ人らしくない、冷や汗を感じる。
濃密な、
腕が触れた。
しかし――
「お前、なんで……」
腕は私の肉体を投げ飛ばすことなく、引きちぎることもなく。ただ触れたまま止まっていた。
「お前、すでに死んでいるな!?」
少女が喚き立てる。
意味はわからない。大事なことを言っているようだが、今理解するために頭を使うのは愚策である。
これは好機だ。
全身に血をめぐらせる。
骨、臓器、筋肉、異常なし。
傷なし、痛みなし。
武器は摩耗、盾は健在。
戦闘能力に問題なし。
「これより
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