第17話

 崖の道は、馬車が一台やっと通れる細さだった。


 左には急勾配の山があり、右には深い谷。谷底では滝のように速い川が流れている。毎日泳いでいたエウロタス川より広く、荒々しい。

 

 訓練には良いだろうが、鎧のまま落ちたら戻ってくるのは難しいだろう。

 水浴びは保留にすることにした。



「この光景は……否が応でも思い出してしまうな」


 それは瞼にこびり付いた記憶。

 

 左には霊峰パルナッソス山、右には海の神ポセイドンが荒立たせるエーゲ海。前からは100万のペルシア兵、隣には長年戦場を駆け抜けた戦友。


 レオニダス王の号令でスパルタの盾はひとつの壁と化し、槍は一糸乱れず敵を貫く。


 不死の軍団も、呪術師も、地獄から蘇った怪物も、太古の巨人も、悉くを屠った。


 だが、1人の裏切り者によってペルシアに背後を取られ、敗れた。


 栄光の瞬間であり、同時に苦々しい記憶でもある。



「もしかしたら、この谷にも抜け道があるやもしれん」



 そうなれば盗賊に襲われる危険もある。戦技とやらがあれば、急な山肌でもあるけるのだ。用心するに越したことはない。



「だが、まずは贄を捧げなければ」



 抱えていた臓物を岩の上に置いて簡易的な祭壇とする。アルテミス・オルテイア神殿で行った儀式を思い出そうと頭をひねっていると、前から頭の悪そうな声がした。



「あれれーおっさん、一人旅ですかー?」


「知ってる? この道って通行料が必要なんだよ」


「大人しく金貨10枚払いな。じゃなきゃお前を売っぱらうぞ」



 なんといいうかまあ、案の定ガラの悪い山賊が現れた。


 意外なのは3人しかいない上、装備はみすぼらしく、武器の手入れもされていないことだ。しかも、奇襲するわけでもなく、のこのこと正面から。

 戦技を使えないのか、もしくは馬鹿なのか。恐らく後者だろう。

 

 しかし、不思議だ。

 狭い崖路だが、一応都市をつなぐ街道。騎士や護衛を雇った商人が通るというのに、これほど程度の低い山賊が生き残っているとは。

 もしかしたらこの3人は囮で本隊が潜んでいるのかもしれない。



「おい、無視してんじゃねえよコラ!」


「俺たちが優しくしてるってのに調子に乗りやがって!」



 ……まあ、良いか。

 伏兵がいるならまとめて蹴散らせばよいし、根城があるというならば2人殺して残りの1人から聞き出そう。


 結論を出して、盾と槍を構える。

 槍の柄は少しガタが来ているが問題ない。折れたら拳があるし、目の前には手入れを怠っているとはいえ奪える武器がある。


 空気を吸い込み、いざ戦闘開始――というところで、山賊の後ろに新たな人の気配を感じた。

 背が低い。子供だ。



「うん? なんだこのガキ。ここは通行料ないと通れないぜ」


「ガキだからって容赦しねえぞ!」



 キャンキャンと山賊がまくし立てるが、子供は何事もないように歩き続ける。


 旅人にしては様子がおかしい。あまりに軽装すぎる。

 さらに、着ているローブは魔術師が着ていたものと似ているが、あまりに禍々しく、まるで魔女の神ヘカテ冥界の神ハデス両方の加護を受けているようだ。

 右手に持つ杖には人骨の頭蓋がはめられており、歩くたびにカラカラと顎が揺れる。異端の神々の司祭だろうか。



「聞いてんのか、おら――――え?」



 手を上げた山賊が宙を舞う。そして何の抵抗もできないまま谷底に真っ逆さまに落ちていった。

 

 何が起こったか分からず、残った2人の盗賊は口を開けて呆けていた。

 だが、意識を取り戻すと一転して怒りを顕にした。



「な、よくも兄弟を!」


「ぶっ殺してやる!」



 技もなくただ闇雲に剣を振るって襲いかかる。

 しかし、刃が届くことはなく、2人とも仲良く谷底に落ちていった。


 子供は何事もなかったように真っすぐ歩いてくる。


 私は眼を見張った。


 あれは腕だ。


 蛙の舌より速く、象の鼻より長い腕が、3人の足首を掴んで放り投げたのだ。


 何より恐ろしいのは、その腕に気配がない。



「…………」



 子供は歩みを止めない。


 一歩一歩、ゆっくりと近づいてくる。


 気配のない腕に警戒して、全身を身構えるが一向に飛んでこない。

 こちらから仕掛けるにも不確定要素が多すぎる。攻撃しなければ敵対しないと考えるのは、甘いのだろうな。


 徐々に間合いは詰められる。


 槍の間合いまであと肘ひとつといったところで、そいつは顔を上げた。

 充血した赤い眼の下に、大きな隈を作る少女。

 彼女は不器用に笑い、言った。



「お前、いいな」



 瞬間、左右から幾十もの腕が伸びてきた。 


 いつの間に囲まれていたのか。とても躱しきれる量ではなく、盾ひとつで防ぎきれる量でもない。


 ならばどうする?


 考えている内にも百腕の巨神ヘカントケイルを相手取るような重圧が迫る。

 スパルタ人らしくない、冷や汗を感じる。

 濃密な、ハデスの足音。


 腕が触れた。


 しかし――



「お前、なんで……」



 腕は私の肉体を投げ飛ばすことなく、引きちぎることもなく。ただ触れたまま止まっていた。



「お前、すでに死んでいるな!?」


 

 少女が喚き立てる。


 意味はわからない。大事なことを言っているようだが、今理解するために頭を使うのは愚策である。

 

 これは好機だ。 


 全身に血をめぐらせる。


 骨、臓器、筋肉、異常なし。

 傷なし、痛みなし。

 武器は摩耗、盾は健在。


 戦闘能力に問題なし。



「これより戦争スパルタを開始する」


 



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