第13話
「聞き間違いか、ワインを水で割ると聞こえたんだが」
下手人は騎士レオルドだった。
「遠駆けから帰っていたのか」
青い鎧と白いマントには汚れが目立つ。あの後さらに魔物と戦ったのか。しかし、突きつけられる長剣には汚れひとつない。
「質問に答えろ」
「貴公の耳は正常だ。それよりこれは宣戦布告か?」
周りの人間が止める様子はない。当然のことばかりと見守るばかりだ。
「そうか、お前は遠くの国から来たと言っていたな」
剣をそのままにレオルドは言う。
「オリゼ侯爵領だけでなく、このミドラ大陸においてワインを水で割ることは重罪だ。天上種であるエルフの法を犯す者は誰であれ許されない」
「天上種? エルフ?」
聞き慣れない言葉に首を傾げる。彼らにとっての神だろうか。
だとすれば、ここの神はワインを知らない。
「エルフとやらはわかってないな。水を足さないワインなど野蛮人の飲むものだ」
「貴様、天上種の侮辱を! さらに罪を重ねるか!」
激昂したレオルドが剣を振り上げる。
首を傾げた時にも思ったが、この男は剣が不得手だ。
首を切りたければ剣を引けば良い。それをわざわざ振り上げるなど、素人もいいところだ。
難なく剣を片手で掴み取り、空いた手で水差しを持つ。
そして、見せつけるようにワインに注いだ。
「知らんな。スパルタ人を裁けるのはオリュンポスの神々とスパルタだけだ」
レオルドの顔が怒りで歪む。
剣から手を離し、掌を広げた。恐らく魔法の構え。
瞬時に盾に手をかけた時、文字通りの横槍が入った。
悪趣味にも宝石で飾られたポセイドンのごとき
いつの間にかエマの隣には褐色肌の女戦士が立っていた。
「エマ、何のつもりだ」
「酒場で刃傷沙汰なんて無粋もいいところだよ。やるんならこいつでやれ」
エマは拳をぐっと握り、笑う。
騎士階級のレオルドに睨まれても、怯むことはない。
「これは喧嘩ではない」
「喧嘩さ。人を殺したわけじゃない、物を盗んだわけじゃない。侮辱と言ってるけど、彼はエルフを知らないと言っている。知らん相手に侮辱もなにもあったもんじゃないよ。ただ意見が食い違ってる2人が言い合うなら、それは喧嘩だ」
「知らないで許されることじゃねえ」
「どうせ強い酒を飲んだら水を飲む。それを口に入る前にやっちまう田舎者がいたってだけじゃないか」
「だけ、だと?」
「だけ、さ」
しばし2人は睨み合う。
先に折れたのはレオルドだった。
「わかった、今回はオリゼ商会長のご令嬢である貴様の顔を立ててやる。見逃そう、だが次はない」
彼はため息をつき、開いていた掌を収める。
「おいおいおい、何やってんだよ」
「まだ何かあるのか?」
「あたしは殴り合いをしろって言ってんだ。お前が罪だの裁きだの言い出すから、飲んでる奴らが湿気ちまったじゃねえか。責任とって盛り上げろ」
「無茶言うな! なんで俺がそんなことを」
「日々の疲れを女将の笑顔で癒やしてる騎士様が、出禁にならないように配慮してやってんだろ。むしろ感謝しな」
「お前、それを言うんじゃねえ!」
エマの機転で剣呑な雰囲気は消えたが、また変な流れになっている。
彼女はこちらを向き、にやりと笑う。狐のような女だ。
「もちろん、あんたはやるよな?」
「拳闘は得意だ。若造などあしらってやろう」
「なんだとランク1冒険者!」
胸ぐらをつかもうとしたレオルドの腕は空をつかみ、元の位置に戻された。私は何もしていない。女戦士が三叉槍で絡みとっていなしたのだ。彼女は中々できるな。
女戦士は、エマが手を挙げると槍を下げ、直立姿勢に戻った。
エマは彼女に労うこともせず、こちらに話しかけてきた。
「慌てなさんな、こういうのには形が大事だ。そうだ、あんた名前はなんて言うんだい?」
「ヘラクレイオス、スパルタのヘラクレイオスだ」
なるほど、と言いながらエマは立ち上がり、周囲を見回した。
「さあさあ、お立ち会い! オリゼ侯爵領で知らぬものはいない青獅子騎士団のレオルド! それに相対するのは遠い異国スパルタから来た冒険者ヘラクレイオス! 誰も想像できない歴史的な一戦の始まりだ。張った張った!」
「エマが胴元始めたぞ!」「よっしゃ俺はレオルドに大銅貨3枚だ!」
「俺は大銅貨1枚に銅貨8枚!」「なんの、大銅貨5枚につまみのナッツをつける!」
「俺はヘラクレイオスに大銅貨6枚だ!」「やれ! やっちまえ!」
すぐに酒場は割れんばかりの騒ぎとなった。
「これで場は整ったな」
「エマ……」
レオルドはげんなりと肩を落とす。
何が不満なのか。観衆がいる方が喧嘩は盛り上がる。無人のオリンピアの祭典など、誰も参加しないのだから。
「私は一向に構わない」
「言うじゃねえか。でもちょっと待ちな、さすがに鎧ありだと俺が有利すぎる」
鎧の留め具に手をかけようとするレオルドを私は制した。
「私は一向に構わない」
「てめぇ……」
一般に殴り合いは重い方が勝つ。さらに硬い拳があれば言うことはない。全身鎧のレオルドは、そこらの獣よりよほど凶悪だろう。
しかし、それがどうした。
私はスパルタ人である。スパルタはその程度の不利で負けることはない。
「さあ、始め!」
「後で泣いて後悔するんじゃねえぞ!」
レオルドの拳が振り上げられる。木の机程度なら容易に砕く威力だ。
私はそれを見ながら、拳をつくる。
指一本一本に力を込めると、ひとつの鉄塊となった。
大地を蹴り、足から腰まで全ての関節を駆動させ、加速させる。
肩から拳まで至る時には、ネメアの獅子すら昏倒させる。
勝負は一瞬。
青い鎧は砕け、レオルドは店の外でのびていた。
「しまった、壁の弁償代は持ち合わせていない」
静かになった酒場で、私の声だけが虚しく響いた。
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