第5話

「おはよふ……ございます」


「すまないことをした。羊飼いは朝が早いことなど当然のことであったのに」


「きにしにゃいでくだふぁい。ひつじをつれてそうげんにいったら、すこしねまひゅから」


「大丈夫そうではないな。同行しよう、責は私にある」


 ふらつきながらも習慣故にテキパキと羊を群れさせ己の後についていかせる。ただの羊飼いの杖だと思っていたが、微弱な催眠能力があるらしい。

 牧羊犬もなしで一人で放牧できるとは、この国は随分と便利なものが多い。

 

 今日も太陽アポロンの輝きに曇りはなく、風は芳しい。寝不足でなくとも眠りを誘うには十分である。


 スパルタ人は極限状態でも戦闘するために睡眠をほとんど必要としないが、あまりの心地よさにあくびをしてしまう。


 限界が来たのか凹凸の少ない岩の上で眠ってしまったティアナを尻目に、思考の端に置いていた問題を考える。


「昨日はこの国の情報を得るだけで手一杯になってしまったが、結局私は何故ここにいるのか」


 テルモピュライで死んだはずだ。エリュシオンでもなく、冥府でもなく、タルタロスでもない。人間の国、ギリシアやペルシアと異なる理を持つが、間違いなく人が治める国だ。


「王は、友は、この国にいるのだろうか」


 名誉の死を迎えた戦友たちに思いを馳せる。もしいるならば心強いことこの上ない。しかしそれは英雄の安息の地にたどり着けなかったことを意味する。決して喜ばしいことではない。


「私は英雄になりそこねたのか――スパルタ人として恥ずべきだ」


 生き恥をさらすというのか、スパルタ人が。

 だが、スパルタ人に自死はない。生きて戦で死ぬまでスパルタだ。


 ならばこの国で名誉の死を見つけよう。

 スパルタはない。守るべき土地も、守るべき人もいない。


 では、何のために戦う。

 見知らぬ国か――否、スパルタに敵対しないとも限らない国を守るのは早計だ。

 無辜の民か――否、神も信条も違う人を守ったとして名誉の死は迎えられない。

 戦うための戦い――否、不毛である。スパルタ人は戦士であるが蛮人でない故に。

 

 「わからない。私はスパルタ人として何をすれば……」


 迷うのはスパルタ人らしくない。しかし、それは決断を王に一任していただけのこと。王も、長老会ゲルシアも、監督官エフォロイも、民会アベラすらない今、決断を下せるのは自分のみだ。

 

「これほど決断するのが難しいとは……王が託宣の地デルフォイに向かった理由がわかった気がする」


 誰しも決断をするのは難しい。だからなんとか寄る辺が欲しくなる。寄る辺のいない者は神に縋るしかない。


「まぁその予言のせいで我らは300人で戦うことになったのだが……だが託宣が真実なら今頃スパルタはペルシア軍を壊滅させてるだろう」


 もし、スパルタが1万の兵を出したならば勝利は確実だ。

 恐らく将はレオニダス王の甥パウサニアス殿。野心家だが優秀な軍人なので、間違いない。


 思考を巡らせていると、血なまぐさい獣臭が木々の間から漂ってくる。


「全く昨日のオーガベアといい、この国の獣は節操がないな」


 ラコニアの獣ならばもっとうまく気配を隠す。スパルタの兵士すら捕食する奴らと比べたら、存在を誇示する魔物という生物は二流だろう。


「出てこい。遊んでやる」


 影が跳ねた。

 肉食獣特有の最速の跳躍。獲物の急所を穿つ、致命の一撃。


「遅い」

 

 しかし、狼と比べてあまりに遅い。槍で喉を突くには丁度良いくらいだ。


 木の棒にナイフを巻いただけの簡易的な槍だったが、穂先は過たず魔物の口腔内をずぶりと貫く。


「なに……?」


 しかし、手応えがあまりに少ない。


「この魔物、煙か」


 獣は槍に貫かれたまま、ゆらりとその身を燻らせ、牙をむき出しにして笑った。


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