第2話

 気がつけば、清々しい青空が広がっていた。

 

 たゆたう雲、輝く太陽アポロン


 私は空を落ちていた。


「なるほど、冥府は地の底ならば死ねば落ちるのも道理だな」


 素肌に吹き抜ける風が心地よい。温暖で花香る理想郷という伝承は嘘ではなかった。

 大地に目を向けると穀倉地帯アルカディアもかくやの麦畑が広がり、細い水の道を広く張り巡らせている。色とりどりの花が咲く草原が周りを囲み、山には広葉の木々が生い茂る。


 肥沃な大地だ。ここならば戦士としてではなく、農家として暮らせそうだ。

 しかし、王も友もすでに下で待っているだろう。いずれヘラクレスのようにマキアに参加する栄光が与えられる可能性があるならば、この身は死してなおスパルタ戦士である。


「それにしても、神々も酷なことをする」


 神々はいつも気まぐれで、人に難題を与えるものだが、今回は特にひどい。


「天空からの自由落下など、軟弱なアテナイ人では熟れたザクロになろうに」


 もちろん常在戦場のスパルタ人ならば、どうということはない。日々人の揚げ足を取っているアテナイ人とは鍛え方が違うのだ。

 しかしエリュシオンに呼ばれるアテナイ人ならば話は別なのだろう。ミノタウロス殺しテセウスならば華麗に着地しそうだ。


 段々と景色が近く、大きく見える。

 着地準備を取ろうとした瞬間、直下で争いの匂いがした。


「ん? あれは――」


 見回すと、獣が人を襲っていた。

 空から見ても、大柄な熊である。対して人は武器らしい武器を持たず、尻もちをついている。


 瞬時に肉体の状態を確認する。

 骨異常なし。臓器異常なし。筋肉異常なし。傷なし。痛みなし。

 武器、鎧なし。しかし戦力に問題なし。


「栄えあるエリュシュオンでの初陣である。万能たるゼウスよ、領主たるハデスよ、戦神アレスよ、祖たるヘラクレスよ、ご照覧あれ」


 着地地点から敵性生物までおよそ1スタディオン180メートル。なるほど、オリュンピアの祭典と洒落込もう。


「これより戦争スパルタを開始する」


 あしゆび、足首、膝、股関節、腰の要に至るまで、落下の衝撃を分散し受け止める。

 分けた衝撃を丹田はらに溜め、再び脚から解き放つ。

 その姿はアキレウスのように。誰も追いつけぬ速度で、瞬く間に獣の目前に到着した。

 

 初めて見る、青毛の巨大熊。牙は猪、頭に雄牛の曲がり角。


「混血の怪物か、初陣に相応しい」


 私の登場で驚き、巨大熊は前脚を上げ二足で立ち上がる。


「習性は熊と同じ。ならば造作ない」


 熊は恐ろしい動物だ。四足特有の高い筋力を持ちながらも前足を器用に使える。狼や獅子のように牙だけ警戒すれば良いものではない。


 しかし、スパルタ市民ならば熊殺しなど12で果たす。


「スパルタのパンクラチオンを馳走しろ」


 パンクラチオンは全てが許される。殴る、蹴る、投げる、極める、絞める。オリュンピアの祭典では死者が出ることも珍しくない。故に、獣相手なら丁度良い。


 脚を鉄のごとく硬直させ、股間を蹴り上げる。

 足の甲にぐちゃりと生暖かい感触が伝わる。


 身を倒しながら絶叫。開いた顎など的でしかない。

 すかさず固めた拳で顎を撃ち抜く。無駄に長い牙は砕け、首が半回転する。


 ちょうど掴みやすい角がある。回った方向にさらにひねりを加える。

 スパルタの筋力と、獣の体重。2つの力を受けた首は文字通り音を上げた。


 獣も人も、頚椎が砕ければハデスに誘われる。


 青毛の巨大熊。牙は猪、頭に雄牛の曲がり角。混血の怪物。

 しかし蓋を開ければタイゲトス山の熊と大差なかった。


戦争スパルタ完了」


 私は死体の上でささやかな勝利を神に捧げた。

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