第6話 井上隆(二十四歳)
公立中学の教員になって早二年、担任を任されて一年半。教員になって半年しか経たない僕に、担任教諭を任せるとはどんな神経をしているのだと思ったが今では経験を積むことが出来てよかったと思ってる。同期の教員より一足先に担任教諭の経験をさせてくれたのだから。僕が担任を任された理由は実に単純なことである。僕が副担任をしていたクラスの担任教諭が突然の病に倒れて入院生活を余儀なくされたからだ。僕と担任教諭の橋本先生は大学時代の先輩後輩の関係でもあるため、職場でもプライベートでも仲良くしていた。だから、彼は「あのクラスの担任は井上先生に任せてくだいさ」と言ってくれた。僕は、闘病中の彼のためにも誠心誠意今日まで担任を務めてきた。
副担任をしていた時から気になっていたのだが、和田木葉とはどんな生徒なのだろうか。彼女は何かにつけて一人でいるところを見る。その反対に誰かと楽しそうに会話をしているところを見たことがない。写真を撮る時も笑っていない。僕は担任をしているクラスの生徒とは沢山会話をすることにしているのだが、彼女との会話は昨年度の夏休み補修が最初で最後だ。彼女に話しかけようとしても他の生徒に話しかけられて気付けば休み時間が終了している。彼女は何か隠しているようにも見えなくはない。いつもうつむいて、人と話すのを極力避けている。それと、彼女の両親は三者面談に顔を出さなかった。彼女はその時、「両親は仕事が忙しくて来られないそうです。」なんて言っていたが、普通の両親なら来られなかったとしても代役を頼むか時間外の予定を設定してくるはずである。彼女の家庭は何かがおかしい。
今日もいるかと、放課後の教室をのぞきに廊下を歩いていると向かい側から女子生徒が騒がしく歩いてきた。何かの話で楽しそうに盛り上がっている。彼女達は井上のクラスの陽キャの子たち。いつも楽しそうに何かを話している。授業中も何やらやり取りをしているので教師陣はかなり困っている。
「お、君達あんまり先生たちを困らせないでくださいね。今日もまた盛り上がっていたそうじゃないか。」
「あーあれね。だってさ、佐山がノートにうんち書いてたんだよ。マジ汚すぎるっしょ?」
「こらこら、敬語を使いなさいな。まぁ、授業中は何かに気を取られるのは先生もよくわかるけどほどほどにしてくだいよ?」
「はーい。分かりましたー。んじゃ、先生さよなら。」
「はい、さようなら。また明日ちゃんと来るんですよー?」
そんなこんなで生徒たちと少し会話してから放課後の教室へとやっとたどり着いた。実はあの後も何組かの生徒達とお喋りしてきたのだ。
教室に近づいていくとドア付近に影が見えた。じっとしていて身動きをしていない。下を向いているらしいのだが何をしているのかは分からない。ドアをそっと開けると和田木葉が手にノートを持っていた。そのすぐ下にはごみ箱が口を開けていた。そのノートは彼女がどんな授業の時も持ち歩いているものだ。中になにが書いてあるのかは分からないがいつも持っていて、たまに何か書き込んでいる姿を見かける。
固まっている木葉は何を考えているのかよく分からなかったが、声をかけた方がいいように見えた。
「あ、えーと、和田さん。」
そう、声をかけたはいいが何を言ったらいいのか何も考えていなかった。だから嫌な沈黙が流れた。苦し紛れに「今日も、残っていたんだね。」と言ったはいいがその後が続かない。
木葉はぼそぼそ何やらつぶやいたが、井上の耳には届かなかった。何を言ったのか聞きなおそうとしたが、彼女はすぐに出ていてしまった。
和田木葉は出て行くときに、目に涙をためているようにも見えた。彼女に一体何があったというのだろうか。彼女だけが僕の生徒ではないが、彼女は何か特別なような気がしてならない。彼女はもしどこかで一人ぼっちで泣くようなことがあれば何か力になりたい。しかし、彼女は逃げるように帰っていった。それを見ると彼女は自分のプライドを守るためにそうしたかのように思える。彼女と無理やりお話をしようとするのは彼女をかえって傷つけてしまうことになるのではないだろうか。彼女が最後に何を言ったのかは分からないし、それよりあんなに中途半端なことになるのならば何も言わなかった方が良かったのかもしれない。何も言わずに彼女の行動に寄り添えばよかったのかもしれない。
数日経っても木葉の一件が井上の頭から離れなかった。井上がしびれを切らして彼女の抱えているものを聞き出そうと決心した二月になるまでも木葉は今にも泣きだしそうな表情で毎日休まずに学校に来ていた。
二月の明け、ついに和田木葉が学校に来なかった。無断欠席。彼女は今まで学校を一日も休まず、一日の遅刻や早退もなかった。勉強も毎日学校に朝早く来てこなし、放課後は誰よりも遅く残っていた。そんなまじめな彼女が学校を無断で欠席するのはやはりおかしい。何かがおかしいのだ。
和田の家に電話をしても誰も出なかった。今日は残業があるので彼女の家に言って確認することはできないが、明日は必ず彼女の様子を見に行った方がよさそうだ。
午後二十二時。ひとまずここであわらせて今日は家に帰ろう。
と、井上が身支度を始めると職員室の電話が鳴った。普段こんな時間に電話が鳴ることはまずない。なので、唐突の電話音に少し驚いて筆箱を落としてしまった。落としたのが筆箱でよかったと思いながら井上は電話を取った。今晩は井上しか残っていなかったのだ。
「はい。こちら小柴市立小柴西中学校です。」
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