第3話 線香の匂い

 八月のお盆は毎年、父方の実家を訪れるのが恒例となっていた。祖父は既に亡くなっており、祖母が一人で暮らしている。オレには叔父や叔母はいないので親戚一同、賑やかに集まるということはない。父は海外勤務、母は婚家こんかに顔を見せるのが億劫おっくうだという理由で、孫のオレが単身、祖母の顔を見に来ているわけだ。ど田舎な上に知り合いも当然いないため、こちらに来てもやることは限られていた。近所の川や林を散策したり、祖母が孫のためにと近所の家から譲り受けた……というよりは、半ば不要なので押し付けられたような古いマンガやゲームを気まぐれで手にするくらいだ。


 ――ただ、今年はいつもと違ってイレギュラーなことが起きてしまっている。


「昨日のカレー美味しかったね! 今日のご飯は何かなー?」

「幽霊のくせに飯のことばかりだな……それ以外にお前は関心がないのか?」

「それ以外って言うけれど、食欲は人間の3大欲求の一つだよ? まあ、生きるためというよりは得られる幸福感、満足感のために重要視しているんだけどね! セロトニン、ドパドパだよー」


 ――こいつに関して、まともに考えたところで無駄だな。


 下の階から油が焼けたような香ばしい匂いが漂ってきた。不思議なもので、起きた直後は食欲がなくても、食事の気配を感じるとしっかりお腹が空くものだ。


「朝飯は焼き鮭みたいだぞ――」

「わーい、朝ごはーん!」


 ドタドタと慌ただしく階段を降りていき、食卓につく。


 ――焼き鮭をメインに……出汁巻きたまご、納豆、味噌汁……The和食の朝食だ。


 隣を見ると幽霊少女は満面の笑みで食卓を眺めている。


「いただきまーす!」

「ふふ、召し上がれ。よく噛むんだよ」


 祖母は、にこやかに告げ、こちらを眺めている。昨日の晩飯もそうだったが、実際には、一人分の食事しか用意はされていない。しかし、オレの目には二人分用意されている上に隣で美味しそうに食事をたいらげる少女の姿が映っていた。当然、向かいに座る祖母からはオレが一人で食べているようにしか見えていない。オレの見えているものと現実の光景で齟齬そごが生じないように脳が処理をしているのだろうか。そんなことをぼんやり考えながら、鼻の奥で焼き鮭の風味を感じるのであった。




 一台の原付が、けたたましい音をあげながら、家の前を通って行くのが聞こえる。食後の重くなった体を床に預け、畳のひんやりとした感触を確かめた。天井のシミの数をなんとなく数えているとヒョコッと逆さまの顔が覗き込む。


「ねーねー、今日はどこかに出かける? もう出かけるー?」

「出かける前提で会話を進めるな。飯食べたばかりだから、まだ動きたくないんだよ」

「食べてすぐ寝ると牛になるんだよー」

「寝るのはダメだが、横になるのは体にいいんだぞ。オレは胃腸をいたわっているんだ」

「へえー、そうなんだ。じゃあ、いたわりタイム終わったら、お出かけね!」


 ――面倒くさい。


「おい、そこの本棚にあるマンガをとってくれ。上から二段目……左から三冊目――」

「えーとー……上から二段……三冊……んーDB? これ面白いのー??」

「オレも世代じゃないからそこまで詳しくないけれど、面白いぞ。読んでみろよ」


 背景がやたら細かく描き込んであるマンガがオレは嫌いだ。一枚で完結しているような絵画なら背景や皮膚、髪の毛の質感、光の表現など、細かく描かれていてもおかしくはない。限られた中で、ストーリーだったり、作者自身の思想やらを込めなければならないからだ。しかし、マンガは違う。数ページ以上が与えられて、コマ単体ではなく、コマからコマへの繋がりで時間の流れだったり、キャラクターの心情を表現する。読み手に与える情報量のキャパシティがそもそも違うのだ。絵なので、描き込もうと思えばいくらでも細かく描けるが、そういうものは読んでいて疲れるし、飽きてしまう。余計なものは入れず、必要最小限の描写にこだわり、読み手側に想像する余地を与える。オレにとって、いいマンガとはそのようなものだ。




 蝉の鳴き声に包まれながら、二人して、一心不乱に読み耽る。時折、時計を見上げては、また紙面に視線を移す。心なしか、時計の進みがいつもより早く感じる。


「ん〜、面白いねこれ! 技の撃ち合いのところが熱いよ〜」

「あーどこ? 『四倍だぁ!』のところ? あそこは確かに熱い展開だな。限界を超えた先って感じが、実に少年マンガしていていいよな」

「この先、地球を出た後はどうなるの?」

「そこで倒した敵の三十倍以上……強いやつが出てきて絶望する――」

「サ、サンジュウバイ? ちょっと、インフレ起こしすぎじゃない?」

「宇宙規模になるからな。インフレもするだろう。地球に戻ってきてからは未来から敵がやってくるという、宇宙どころか時間を超えた展開が待ってるぞ」

「それ――主人公達はちゃんと敵を倒せるの?」

「大丈夫だ。しっかり修行というイベントを経て、インフレの波について行っている。これも少年マンガの醍醐味だ」


 納得と不承が混ざったような表情をした後、幽霊少女は時計を一瞥し、目を見開いて不服そうな声をあげた。


「あー! もうお昼に近いじゃん――早く出かけようよー!」

「あともう少しで全巻読み終わりそうなんだ。もう少し待て」

「マンガなんて帰ってきてからも読めるじゃん! 私といつまで一緒にいられるかもわからないし、ずっと家に籠っているのはもったいないよ。とりあえず外に出よ?」


 握りたての寿司や好きなアーティストの生歌のように物事にはそれを最大限享受することができるタイミングや臨場感というものが存在する。マンガも例外ではない。単行本は本誌掲載時と違い、複数の話を一気に読み上げることが可能だ。気になる展開が起きても、先延ばしされることなく、1枚ページをめくればすぐ続きを読むことができる。話の腰を折られず、物語に没入できる単行本ならではのライブ感が最高なのだ。ましてや、オレが読んでいたあたりは佳境を迎えた最終章。何人たりとも邪魔をしてほしくなかった。


 ――この理由を話したところで素直に聞いてくれるかどうかはわからない。少し変えて、大袈裟にごねてみるか。


「待ってくれ! 前来た時もまだ時間があるから先延ばしにして結局、読みきれなかったんだ。中断した後、なんだかんだ読まなかったんだよ。婆ちゃんの家には、たまにしか来ないからさ――半年も待ったんだ。頼むよ、あともう少しで全巻読めそうなんだ――こんな中途半端な所で終わったら、満足して家にも帰れねーよ!」


 幽霊少女はオレを神妙な顔で数秒見つめ、クルッと背中を向けると、しばらく黙り込んでしまった。


 ――そんなに一刻も早く出かけたかったのか。まあ、帰ってきてからすぐ読めばいいだけだし……折れてやるか。


「ああ……悪かった。行くよ、いや――行くか!」

「ううん……いいの。むしろ、凛くんじっくり読んでていいよ。私が勝手に言ってるだけだしね! やっぱり、本人の気持ちを優先しないと――反省、反省」


 なんとも、ばつが悪い。オレのこだわりを通すためにオーバーに要求した結果、幽霊少女は思ったよりも深刻に受け止めてしまったようだ。読むのはいいと再三にわたり声をかけたが、かたくなに、読み終わるまで出かけなくていいと言い張られてしまい、渋々続きを読むことにした。


 ――話は面白いけれど、この空気感じゃライブ感もクソもないな。


 蝉の声がさっきよりもうるさく反響する気がする。まるでオレを責めているようだ。


 ――別に悪いことをしたわけではない。しかし、なんなのだろう、このモヤモヤは。あいつといると調子が狂う。


「お昼だよぉ。降りておいでぇ」


 ちょうど読み終わるタイミングで一階から祖母の声が聞こえてきた。


 ――救いの鐘のような響きだ。


「飯だってよ」


 立ち上がりつつ、少女を目の端で見て告げる。少女はこくりとうなずき、影のように後を静かについてきた。




 階下に降りてから食卓につくまで、幽霊少女と特に会話を交わすことはなかった。その間、幽霊少女がどんな表情をしていたのかはわからない。なんとも言えぬモヤモヤが終始、オレの中で渦巻いており、それどころではなかった。

 雑念が入っていたせいか、気づいたらお昼のそうめんを食べ終わっていた。空になった器をぼんやり眺める。


 ――こっちから切り出してやるか。


 幽霊少女の方をチラリと見て、呟くように口を開いた。


「あー、散歩にでも行くか――?」

「――うん!」


 一瞬目を丸くした後、口角が空に飛んでいきそうな笑みを浮かべて、幽霊少女は応えた。


「ねー!どこに行くのー?」


 玄関までの短い廊下を幽霊少女がうるさくついてくる。不思議とそこまで煩わしくはなかった。やかましくもどこか心地よいそんな気分の中、苦い笑みを浮かべて返事をする。


「ノープランだ――」


 扉を開けると溢れんばかりの光がに目に飛び込んできた。白い世界から徐々に色が戻ってくる中、ぬるい風が鼻先をかすめていく。


 ――線香の匂い。


 見慣れたアスファルトの道はいつもよりもどこか輝いて見えた。

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