竜と寵児(5)

 テーブルに座る女性を前にして、イリスとタリアはすぐに動き出さなかった。女性は微笑むように口角を上げて、綺麗な白髪を揺らしながら、僅かに頭を傾けている。


「どうされたのですか? 遠慮なさらず、お座りください」


 女性はテーブルを挟んだ正面、そこに並べられた二脚の椅子を手で示す。それらはそこに座る女性がイリスやタリアのために用意してくれたもののようだ。


 タリアは女性の誘いを聞いて、戸惑うような目をイリスに向けてくる。座っても大丈夫かと警戒する気持ちがあるとは思うのだが、その部分はイリスも同じことだ。座ってもいいのか、同じように悩み、同じように答えが分からずに戸惑っている。


 しかし、イリスとタリアの置かれた状況が既に女性の手の内だ。どこかも分からない黒い部屋に連れ込まれた時点で、イリスとタリアの行動は女性が握っていると言っても過言ではない。


「座りましょう……」


 イリスが囁くようにタリアへ伝えると、タリアは覚悟を決めたように表情を引き締めて、小さく頷いた。二人は揃って女性の前に踏み出し、微笑むように女性が見つめる前で、テーブルの傍に用意された二脚の椅子に腰を下ろす。

 その様子に女性は満足そうに頷いてから、自身の後ろを振り返って見始めた。


「紅茶はお好きですか? お茶菓子にマフィンもありますが、いかがですか?」


 女性は振り返った場所から、ティーポットとティーカップを取り出し、テーブルの上に並べた。途端にそれまで感じなかった紅茶の匂いが部屋中に広がって、イリスとタリアは思わずギョッとする。


 香り自体は非常に良いものだったが、これほどまでの香りを今の今まで感じなかったことに二人は疑問を覚えていた。ティーポットをどれだけ固く塞いでも、匂いが全く漏れないことはあり得ないだろう。


 女性と共にテーブルや椅子が現れたこともそうだが、何もないはずの黒い部屋の中から、どのように物を踏み出しているのか、イリスとタリアには想像もつかない。


 女性がティーポットを手に取り、イリスとタリアの前に並べられたティーカップに紅茶を注ぎ始めた。これがカフェや友人の家なら、二人は喜んでティーカップを手に取るところだが、この空間ではそうもいかない。

 どのように取り出したか分からない紅茶に口をつけることなど自殺行為にも程がある。


 二人がそう思っていると、そのことを分かっていないのか、分かっているが無視しているのか、女性は更に振り返って、そこからマフィンの乗った大皿を取り出した。


「どうぞ、お好きなだけ、お召し上がりください。練習も兼ねて作ったら、あまりに作り過ぎてしまったので」


 女性は照れたような笑みを浮かべ、目の前に置かれたマフィンを紹介する。その表情にイリスとタリアは警戒心を僅かに削がれ、それまで負っていた緊張感を忘れたように、唖然としかけた。


 だが、未だ二人は自分達の状況も正確に把握できていない状態だ。そこで逢った女性がどのような振る舞いを見せても、イリスとタリアをこの部屋に連れ込んだ事実は変わらない。

 それは誘拐と同じことで、言い訳のしようもなく犯罪のはずだ。


 何より、アスマの命を狙っている事実があって、イリスが女性を警戒しないわけにはいかない。


 イリスとタリアが警戒心を露わにし、ティーカップやマフィンに手を伸ばすことなく、女性のことをじっと見つめていると、女性はその視線を気にする様子もなく、自分の前に用意したティーカップを手に取って、紅茶を啜り始めた。

 それはイリスとタリアの前に置かれたティーカップに入っている紅茶と、同じティーポットから注がれたものだ。


 もしかしたら、大丈夫だということを証明したいのかもしれないが、女性のことも分かっていない以上、そこに何もないとは決めつけられない。


「あまり紅茶はお好きではありませんでしたか?」


 やがて、ティーカップをテーブルの上に置いた女性が不思議そうに聞いてきた。手をつけられる様子のないマフィンも目にして、やや悲しそうな表情を見せてきたことで、イリスとタリアは若干の罪悪感を覚えるが、それでも、今の状況で口にすることはできない。


「貴女は誰ですか?」


 イリスがテーブルについてから、ようやく口を開いて、女性にそのように質問していた。


「誰だと思われますか?」


 女性が妖しく微笑み、僅かに首を傾げる。


「はぐらかさないでください」

「はぐらかしていません。誰かは何となくお分かりなのでしょう?」


 ティーカップに入った紅茶を啜りながら、女性は問いかけるような目をイリスに向けてくる。


「竜に育てられた子供の一人、ですか?」


 ここまでに判明している情報から、イリスがそのように問いかけると、女性はティーカップを置いて、イリスを褒めるように優しく微笑みながら、手を叩いた。


「正解です。私はハクと言います。私の父は現在の竜であるアクシスです」


 ハク。女性が自身の名前をそのように素直に名乗ったことに、イリスは驚きを覚えていた。その名前が正しいものかの判断はできないが、この状況で偽名を名乗る必要があるとも思えない。名乗りたくないなら隠せばいいだけのことだ。


「ハク、さん……? この場所は何ですか?」

「私が魔術で生み出したプライベート空間ですよ。必要とあれば、何でも持ち込み放題なので、このようにティーセットもご用意できるのです」


 魔術で生み出した空間。分かり切っていたことだが、改めて明言されると、イリスの心は僅かにざわついた。どこかの特殊な部屋なら、イリスやタリアでも脱出する方法が見つかったかもしれないが、魔術となれば、その可能性はゼロになる。自力での脱出は不可能と考えるべきだろう。


「あの」


 そこでイリスではなく、タリアが声を発した。マフィンを手に取り、口に含もうとしていたハクが動きを止めて、やや恥ずかしそうにマフィンを口元から離している。


「何でしょうか?」

「私のことを覚えていますか?」


 タリアの問いにハクは微笑み、しっかりと頷いた。


「ええ、もちろん。私が貴女をこちらに連れてきたのですから」


 タリアを連れてきた。タリアの記憶だけでなく、当人からそう語られたことで、ハクがタリアをこの世界に引き込み、アスマの殺害を依頼した人物であることが確定される。

 イリスは改めて湧いてきた緊張感に息を飲み、目の前のハクをまっすぐに見つめる。


「貴女はどうして殿下の殺害を依頼したのですか? 殿下に何か恨みでも?」


 サラディエという遠く離れた地にいて、エアリエル王国から基本的には出ることを許されていないアスマのことを狙う理由が、イリスにはどれだけ考えても分からなかった。

 どこかで接点があるのなら話は変わってくるが、そのような接点をアスマが持っているとは考えづらい。


 そう思っていたら、ハクはイリスの問いにかぶりを振った。


「いいえ、恨みはありません。そもそも、私は魔王と逢ったことがありませんから、恨むほどの関係もありませんよ」

「恨みもなければ、逢ったこともない……? それなのに、どうして殿下を……?」


 平然と語るハクに対して、イリスは信じられないと、疑う目をハクに向けていた。それはタリアも同じことだ。


 相手を殺したいと思うほどに憎んでいるのなら未だしも、恨みもなければ、逢ったこともない、何かを思うほどの関係もない相手を殺したいと考えることがイリスには想像もつかなかった。


 気紛れか、暇潰しか、何にしても、竜に育てられた影響か、一般的な人間とは大きく思考が異なるのではないかと思い、イリスが敬遠する目をハクに向けそうになった時、イリスはハクの自己紹介を思い出す。


「私はハクと言います。私の父は現在の竜であるアクシスです」


 その台詞から、イリスがまさかと思った直後、ハクが正解としてアスマを狙う理由を口にする。


「それは彼がだからです」


 それはイリスが思いついた解答に、正解の印をつける答えだった。

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