竜と寵児(3)

 イリスはゆっくりと瞼を上げた。右へ左へと眼球を動かし、記憶と意識を現実に合わせて調整していく。右から左へ、左から右へと視線を移しても、不思議なことにイリスから見える景色に変化はなかった。


 変化がないと言うか、正確に言えば、イリスから見える範囲に景色と言える景色がない。右を向いても、左を向いても、見渡す限りの黒が続くばかりだ。


 見慣れるはずのない景色にイリスが疑問を覚え、自身の身に何が起きたのか、記憶を引き戻そうとする。目の前の黒さとは対照的にイリスの記憶は確かなものだ。


 イリスはアスマやベル達と一緒に、現代の竜であるアクシスと逢うため、アクシスの棲むサラディエを訪れていた。

 そこで何者かによる魔術を用いた攻撃を受けて、イリスの乗っていた馬車は破損し、イリスはその中に取り残されていたはずだ。


 そこまでは思い出せた。問題はその先だが、その先に至る記憶は靄がかかったように不鮮明で、イリスはちゃんと引き戻すことができなかった。


 自分がどうして、この暗闇の中にいるのかと疑問を覚えながら、イリスは身を起こす。身体を起こしたところで、見える景色に変化はない。右も左も黒がどこまでも続いている。一面の暗闇の中にイリスはいる。


 そう思ってから、イリスは気づく。見渡す限りの黒は天井や壁に限ったことではない。イリスの足元も底が見えないほどの深さになっていると錯覚するほどに黒く、イリスは自分がどこに立っているのか不安定になるほどだった。


 それだけではない。そこでイリスは自身の身体が見えることを確認し、その場がただの暗闇ではないことを悟る。暗闇というよりも、一面を黒で塗り潰した部屋と言った方が正確なのかもしれない。


 そのお陰か、その所為と言うべきか、イリスの見える範囲にある黒がどれくらいの距離にあるかは分からず、イリスは不用意に歩くことも難しそうに思えた。歩き方を間違えたら、即座に壁に頭をぶつけて、イリスは部屋の一部を赤く染めることになるかもしれない。


 そのように懸念し、動くことを躊躇いながら、この場所が何なのか、自分はどうしてこの場所にいるのか、必死に思い出そうとするイリスの隣で、不意に声が聞こえてくる。

 小さく呻くような声に、今の今まで人の気配を感じなかったイリスは慌て、その声のする方に視線を向けた。


 身を起こし、部屋の中を見回すように立ち上がったイリスの左手方向、足元付近に誰かが寝転んでいる。それが誰なのかは考えるまでもなく、顔を見たらすぐに分かる。


「タリアさん……!?」


 ほんの少し前の自分と同じように足元で眠るタリアを発見し、イリスは慌てて声をかけていた。タリアはイリスの声と揺さ振りに反応を示し、ゆっくりと瞼を上げていく。


「イ……リス……さん……?」

「起きましたか?」


 若干の不安から解放され、イリスが安堵の気持ちを込めて呟くと、タリアは目を白黒させてから、恥ずかしさを覚えたのか、僅かに頬を紅潮させている。


「あ、あの……私、寝てしまったみたいで……」


 そう言いながら身を起こし、自身の周囲に広がっている光景を確認したのだろう。タリアは驚くように動きを止めた。


「あれ……? ここは……?」

「分かりません。私も気づいたら、ここにいて。さっきまでタリアさんと同じように眠っていたみたいなんです」


 タリアの抱えた恥ずかしさが少しでも和らぐように、イリスは恥ずかしそうにそう言ってみるが、タリアの視線は吸い込まれるように黒い部屋の方に向けられていた。


「こ、こ……私、……」

「えっ?」


 不意なタリアの告白にイリスは驚き、思わずタリアの顔を見つめていた。そのことにも気づかない様子で、タリアはその場に立ち上がり、ゆっくりと周囲に目を向けている。


「間違い……ありません……ここは私がこの世界に来る前、連れてこられた部屋です」

「それって……」

「ここで私はんです」


 記憶を頼りながら説明するタリアの言葉を聞いて、イリスは思わず部屋の中に目を向けていた。周囲に誰かがいないかと確認してみるが、黒い部屋の中にはイリスとタリアの姿しかない。


「ということは、これは殿下の命を狙っている輩の仕業ですか?」

「どうして私達が?」


 タリアが不思議そうに聞く中、イリスは部屋の様子を見回しつつ、その部屋に連れてきた犯人の気持ちを考えていた。


「可能性はいくつかありますね。例えば、タリアさんが依頼に失敗したから、その罰、とか」


 イリスが口にした可能性を聞いて、タリアは途端に恐ろしくなったのか、一気に表情を青褪めたものに変えていた。その変化を目にして、イリスは配慮が足りなかったと反省しながら、慌ててかぶりを振る。


「ですが、その場合だと、私も一緒に連れられてきた理由が分からないので、多分、違うと思います」


 もしもタリアが目的なら、タリアだけを攫えばいい。イリスを一緒に連れてきても、タリアに対する罰の邪魔にしかならない。


「で、では、どうして?」


 イリスは再び部屋の中を見回し、さっきタリアがこの部屋を知っていると説明してくれたことを思い返す。


「この部屋に私達を連れてきた人物が殿下の命を狙っているとすれば、今回の誘拐もそれに関するものの可能性が高いですね」

「もしかして、再び私達に殿下を殺害するように命令しようと?」


 タリアの口にした可能性を思い浮かべてみて、イリスはそれも否定できないと思い、首肯した。


「私達二人の可能性もありますが、さっきの罰の話と少し繋がって、私、もしくはタリアさんを人質に取りながら、もう片方に殿下殺害を命令してくる可能性もあります」

「そう……なったら、どうすればいいのですか?」

「私が人質になった場合は気にせず、全てを殿下達にお伝えください。問題はタリアさんが人質になった場合ですが……」


 イリスは躊躇いながら、自身の身体に目を落とす。そこに至って、ようやく気づいたのだが、今のイリスは丸腰のようだ。武器となる剣も奪われている。


「その場合は私も気にしないでください。絶対に従って、殿下を殺そうとはしないでください」


 イリスの不安に対して、タリアは強くそう言った。その思いの中には、若干の違う理由も含まれているとイリスは分かったが、その大半はイリスの気持ちを慮ってのものだと分かり、イリスは嬉しそうに首肯する。


「ただ正直、それ以上に厄介な可能性が一つあります」

「それ以上に? それは?」

「私達です」


 イリスが思いつく中で、最も厄介で、最も効果的と思える手段がこれだった。イリスとタリアの両名を人質に取り、アスマ本人に命を差し出させる。これを止める手段はイリスにも、タリアにも、況してや、アスマの周囲にいるベルやシドラスにもない。

 それほどまでにアスマは思い切った行動を平然とする。その性格を知っている人物が犯人だとしたら、この手段を選ぶに違いない。


「殿下は私達が人質と知ったら、自分から命を差し出してしまいますか?」

「どこまでかは分かりませんが、それに近しいことはすると思います。ベルさんやシドラス先輩が止めたとしても、他に代替案が存在しないなら、それくらいのことはしてしまう御方です」


 故に信頼でき、イリスは付き従っているのだが、それを利用される可能性には、流石に頭を抱えるしかなかった。


「ど、どうすれば……!?」


 焦ったように呟くタリアに落ちつくように声をかけてから、イリスは再び部屋の中を見回し、僅かに足を動かした。どの距離に壁があるかは分からないが、すぐにぶつかる距離ではないようだ。


「取り敢えず、ここから抜け出す手段を探しましょう。先に抜け出せれば、悪い可能性も関係ありません」


 イリスの提案にタリアは頷き、二人は手分けして、この部屋から脱出する糸口を探し始める。そこで気づいたが、黒い部屋は想像以上に広く、どこが壁かと怯える心配がないほどに、壁は見つからなかった。


 そのあまりの広さと、タリアの話から薄々は勘づいていたが、イリスは部屋が本格的に魔術の関わった代物であることを悟る。もしそうだとしたら、専門的な知識のないイリスとタリアに抜け出せる可能性は低い。


 そう思いながら探し続け、ここらで一旦、タリアと合流しようとイリスがタリアを呼び、タリアがイリスの元に駆けつけたタイミングのことだった。


「何を探しているか分かりませんが無駄ですよ」


 そこで不意に聞こえた声に、イリスとタリアは固まった。ゆっくりと頭を動かし、視線を声の聞こえた方に向けると、そこにはさっきまで存在しなかった椅子やテーブルが出現している。


「ここから脱出する方法はありません。諦めてお座りください」


 そこに存在するテーブルに一人の女性が座っていた。イリスとタリアを笑顔で見つめて、誰も座っていない椅子を手で示している。

 その絹のように綺麗な白髪を靡かせる女性を目にして、タリアが小さくイリスにだけ届くような声で呟く。


です……」


 その一言がイリスの中の緊張感を高めていた。

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